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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第18章 秘密

「たとえ、お父君がどこのどなたであろうと、殿は殿ではございませんか? ご両親さまが何人であるかなぞ、泰雅さまには何の拘わりもございませぬ。誰が何と申そうと、泰雅さまは泰雅さまにございます。殿、槙野の父がよく申しておりました。人は生まれや育ちで決まるものではなく、人はその人自身の生き方によって作られるのだと」
 生まれの貴賤は所詮、その人の上辺を飾るほんの一部にすぎない。真に人間の核となり得るのは生まれや育ちではなく、その人本人が自ら生きてきた道や考え方、物の見方なのだ。父源太夫はよくそう言っていた。
―良いかい、泉水。人を生まれや育ち、見かけでだけで判断してはならぬ。人をたったそれだけのことで決めるのは怖ろしいことだ。
人にとって、最も大切なのは、その人の上辺ではなく、中身―即ち心なのだ。
 〝そのことをよく憶えておくのだよ〟、幼い泉水を膝に載せて、父はよく語った。まだ幼い泉水にはその話は少し難しすぎて判らなかったけれど、長ずるにつれて、その父の教えは自然に泉水の中に取り入れられていった。
「たとえ殿がどのようなお生まれであろうと、私の心は終生変わりませぬ。泉水は殿をお慕いしておりまする。ずっと、お側におります」
 そのときの泰雅にとって、それ以上の意味を持つ言葉があったろうか。
「泉水、先刻、子どもの時分、父上と見た月の話をしたであろう?」
 唐突に話題がそれ、泉水は眼を瞠った。
「はい?」
「その夜のことだ。父上は俺にこう仰せられた」
 泰雅は、遠くを見つめるような眼で語った。それは静かな、哀しいほどに静かな瞳であった。
 あれは泰雅が九つになったばかりの秋の夜。満月の美しい夜だった。
 まだ前髪立ちで幸千代と呼ばれていた泰雅は父と並んで縁に座っていた。秋の虫の音に包まれ、空には幾千の星が降るようにきらめいていた。
 母が何故か自分にはよそよそしいことに、幸千代は既に気付いていた。自分が何故、母に嫌われるのか、その理由も判らないままであった。そんな母に比べて、父は優しかった。
いつも冷たい眼で、幸千代を見下すように見つめるのだ。冷淡な母よりも、幸千代はよく一緒に遊んでくれる父の方が数倍も好きだった。

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