胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第18章 秘密
そんな父がその夜、幸千代に言い聞かせたのだ。
―良いか、幸千代。これより父が言うことを忘れてはならぬ。
子ども心にも何か大切なことなのだと、幸千代は表情を引きしめた。
―そなたは、これより後、けして良い意味で人眼に立つな。人望・教養もある清廉な者と目されるよりは、放蕩者で、ろくに文字も読めぬ剣もつかえぬような愚か者とのそしりを受ける方が良い。もし、そなたの聡明さが人の知るところとなり、広まれば、嫌が応でも将軍家跡目争いに巻き込まれる。わしは、そなたを権謀術数渦巻く醜い政の世界に引き込みとうはない。叶うなら、榊原家の当主として、この家を盛り立てることを考え、一旗本として心穏やかに一生を全うさせたい。
その一旗本の倅にすぎぬ自分がどうして、将軍家跡目争いに巻き込まれるのか―。父のそのときの科白には、幼い幸千代には理解できない部分がたくさんあった。それでも、父が父なりに愛情をもって、精一杯子どもの自分に伝えようとしているのが判った。だから、懸命に父の言葉に耳を傾けようとした。
―愚鈍なふりをすることがそなたの身を守り、逆に頭角を現せば、生命取りになろう。
―保身ために、愚かな人間のふりをせよと仰せられるのでございますか?
幸千代は、つぶらな黒い瞳を父に向けて、あどけない声で問うた。
父はその問いに対しては何も応えず、ただ淋しげな笑顔を返してきただけだった。
一抹の抵抗はあったが、父の言おうとしていることや父なりの心遣いは子ども心にもよく理解できた。それゆえ、当時少年であった泰雅は即座に父の意を汲み、その教えを守り今日まで生きてきた。
―将軍家跡目争いに巻き込まれる―。
父の言葉の中で、ふと訝しく思えたその一部分もやがて時の流れの中で、泰雅の記憶の底へと沈んでいった。泰雅がその言葉の重要性と存在を再び思い出したのは、それから六年後のことだ。既に唯一の理解者であった父泰久は亡くなっていた。
十五になったばかりのある日、泰雅は家老の脇坂倉之助から一通の書状を手渡された。それは、蒔絵の文箱に入り、外側から幾重にも紐で結ばれており、厳重に封印されていた。父泰久の遺言により、この手紙は泰雅が十五になった時、家老の手を経て泰雅に渡されることになっていたという。まさに、父の遺言であった。しかし、なにゆえ、父はこのような形で遺言を残すことにしたのか。
―良いか、幸千代。これより父が言うことを忘れてはならぬ。
子ども心にも何か大切なことなのだと、幸千代は表情を引きしめた。
―そなたは、これより後、けして良い意味で人眼に立つな。人望・教養もある清廉な者と目されるよりは、放蕩者で、ろくに文字も読めぬ剣もつかえぬような愚か者とのそしりを受ける方が良い。もし、そなたの聡明さが人の知るところとなり、広まれば、嫌が応でも将軍家跡目争いに巻き込まれる。わしは、そなたを権謀術数渦巻く醜い政の世界に引き込みとうはない。叶うなら、榊原家の当主として、この家を盛り立てることを考え、一旗本として心穏やかに一生を全うさせたい。
その一旗本の倅にすぎぬ自分がどうして、将軍家跡目争いに巻き込まれるのか―。父のそのときの科白には、幼い幸千代には理解できない部分がたくさんあった。それでも、父が父なりに愛情をもって、精一杯子どもの自分に伝えようとしているのが判った。だから、懸命に父の言葉に耳を傾けようとした。
―愚鈍なふりをすることがそなたの身を守り、逆に頭角を現せば、生命取りになろう。
―保身ために、愚かな人間のふりをせよと仰せられるのでございますか?
幸千代は、つぶらな黒い瞳を父に向けて、あどけない声で問うた。
父はその問いに対しては何も応えず、ただ淋しげな笑顔を返してきただけだった。
一抹の抵抗はあったが、父の言おうとしていることや父なりの心遣いは子ども心にもよく理解できた。それゆえ、当時少年であった泰雅は即座に父の意を汲み、その教えを守り今日まで生きてきた。
―将軍家跡目争いに巻き込まれる―。
父の言葉の中で、ふと訝しく思えたその一部分もやがて時の流れの中で、泰雅の記憶の底へと沈んでいった。泰雅がその言葉の重要性と存在を再び思い出したのは、それから六年後のことだ。既に唯一の理解者であった父泰久は亡くなっていた。
十五になったばかりのある日、泰雅は家老の脇坂倉之助から一通の書状を手渡された。それは、蒔絵の文箱に入り、外側から幾重にも紐で結ばれており、厳重に封印されていた。父泰久の遺言により、この手紙は泰雅が十五になった時、家老の手を経て泰雅に渡されることになっていたという。まさに、父の遺言であった。しかし、なにゆえ、父はこのような形で遺言を残すことにしたのか。