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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第19章 すれちがい

「何度、同じことを言わせる気だ? そなたはいつから黙(だんま)りになった?」
 泰雅の眉がつり上がり、眉間に青筋が浮かぶ。以前なら、けして見せたことのない表情だ。
 泉水は小さく息を吸い込み、口を開こうとする。その途端に、また、涙の雫が零れ落ちた。
「今宵はお褥はご辞退させて頂きたいのです」
「何?」
 泰雅の額の皺がますます深く、眼付きが剣呑になる。
「頭(つむり)が痛くて、到底お相手ができそうにございません」
 嘘ではない。現に、こうしている今でさえ、頭が割れそうに痛む。短い静寂があった。その間中、泉水は唇を噛みしめて下を向いていた。
 泰雅が怒ると、なまじ美しいだけに何か鬼気迫る凄まじさを帯びた形相になる。そんな顔を見たくはなかったし、何より怖かった。
 あまりに強く唇を噛みすぎたのか、切れたらしい。鉄錆びた味が口中にひろがる。泰雅が苛立っている雰囲気がひしひしと伝わってくるようだ。
 先に沈黙を破ったのは、やはり泰雅の方であった。
「良い加減に致せッ」
 突然、烈しい怒気を孕んだ声が静寂をつんざく。
 泉水は、良人のあまりの憤り様に身を縮めた。機嫌を損ねるとは考えていたけれど、まさか、ここまで怒るとは思わなかったのである。以前の泰雅なら、具合が悪いとひと言いえば、それで許してくれたのだ。
 一体、何が良人をここまで変えたのだろう。どうして自分たちは、こんな風にすれちがってしまったのだろう。それは何も泉水だけに責任や原因があるわけではない。泰雅もまた、あまりに泉水を深く愛しすぎてしまったゆえでもあった。
 たとえ見せかけだけであったとしても、かつて女狂いとまで云われた多情な男が初めて本気で惚れた女、それが泉水であった。他の女は要らない、泉水さえいれば良い―、そう思う気持ちがいつしか独占欲から異常ともいえる執着心に変わっていったのだ。
 二人の間の溝がここまで大きく深刻なものになってしまったのは、泉水が夜伽をすることに抵抗を憶え始めたからだけではない。

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