テキストサイズ

胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第3章 《囚われた蝶》

 もうこれで幾度めになるか知れぬ寝返りを打とうとして、ハッとした。枕許に人の気配があった。“槇野のお転婆姫”との異名はだてに付いたものではない。十二の歳から男装して町の道場へ剣術修業に通ったこともある。そんじょそこらの柔な男よりはよほど剣の腕も立つのだ。
 泉水は咄嗟に身を起こした。枕の下に忍ばせた懐剣を取ろうとしたまさにその時、泉水の腕を何者かが掴んだ。
「おっと、それで俺の寝首でもかき切ろうってえ算段か? つくづく物騒な姫だなあ」
 泉水はその声に眼を瞠った。
 薄い闇に慣れた眼に、泰雅の端整な貌が映じている。こんな状況でありながら、思わず見惚れてしまうほどの美貌だ。
 のんびりと間延びした口調とは裏腹に、掴まれた手首にこもる力は次第に強くなる。泉水の華奢な手からいとも呆気なく懐剣が落ちた。
「な、姫。判ってくれよ。俺はそなたに惚れてるし、そなただって俺に満更でもねえんだろう? 世にも認められた夫婦なんだから、俺たちの間を阻むものなんぞ何もありゃしねえんだ。姫さえその気になれば、すべてがうまくおさまるべきところへおさまるって寸法さ」
 熱い吐息が耳朶をくすぐる。
 惚れた男に言い寄られているはずなのに、何故か身体中の膚が粟立った。
「好きなんだよ。こんな気持ちになったのは初めてなんだ。そなたさえ手に入れば、もう他の女なんざァ要らねえ。だから、判ってくれ、大人しく俺のものになってくれ」
 泉水の脳裏に先刻見たばかりの悪夢がまざまざと蘇る。一面にひろがる芍薬の花。樹下に佇む泰雅。一転して荒れ野となった場所で、泰雅はまるで鬼が人を喰らうように蝶を喰らい、見知らぬよその女を抱いていた。
「い、いや」
 泉水は夢中で首を振った。
 あんな泰雅は絶対に嫌だ。あんな風に自分も泰雅に喰らわれてしまうのか。哀れな蝶のように、ろくに抵抗もできずに泰雅の欲しいままにされてしまうのか。
 何より、今の泰雅の眼が怖いと思った。
 欲情に薄く翳った双眸は冷え冷えと醒めきっている。蛇が捕らえた獲物を舌なめずりして見るような、そんな酷薄な容赦ない視線だ。
 それは初めて男に触れられる本能的な恐怖とは全く別次元のものであった。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ