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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第20章 決別

 湯を弾くすべらかな膚には至るところに昨夜の情事の名残が刻印されている。うなじや胸のふくらみにはっきりと判る赤いアザが花びらのように散っている。湯に入ったせいで、その花びらがいっそう鮮やかに浮かび上がる。
 男の手に馴れてゆく我が身の身体が厭わしく、世にも穢れたもののように思えた。この身体が憎い、男の思うがままになってゆくこの身体が恨めしい。自分は、こんなに淫らな人間ではなかったはずなのに。
「汚い―!」
 泉水は泣きながら、うなじや乳房を手に力を込めてこすった。でも、いくらこすっても、忌まわしい烙印は消えない、消せない。しまいには、白い膚が赤くなってきたのにも頓着せず、泉水は狂ったように自分の身体を洗い続けた。
 このままでは遠からず本当に自分は狂ってしまうだろう。
 夜毎、泰雅に欲しいままにされ、汚辱の渦に巻き込まれて、魂は現からさまよい出て狂人と化すに違いない。これから先ずっと、このような日々を続けてゆけば、もちそうにない自分を見ていた。
 この時、泉水の心は、はっきりと決まった。それまでは幾度も決意しながらも、まだ幾ばくかの躊躇いがあったのだ。それは、すべてを捨ててゆくことへの最後の逡巡でもあった。
 だが、今、ゆかなければ、泉水は永遠にここから出ることはないだろう。どこでも良い、泰雅の手の届かぬところ、誰も自分を知らぬ場所へゆくのだ。そこで、一人で心静かに暮らせたなら、他にはもう何も望むものはない。
 今更、実家の槙野家を頼ることはできなかった。父源太夫は新将軍家利公の御世になっても、引き続き勘定奉行の要職にある。父には既に深雪の方という妻がおり、その年若い妻との間に儲けた弟の虎松丸と親子水入らずで暮らしている。
 既に新しい家庭を持ち、泉水とは別の世界で生きている父に余計な荷物を背負わせたくはなかった。つまり、生まれ育った家には最早、泉水の帰る場所はないということだ。
 むろん、元は父に仕えていた腰元であった深雪の方は心映えも良く、気性も優しい女だ。歳は二十三歳と義理とはいえ母娘というよりは、姉妹といった方が良い間柄だが、もし仮に泉水が離縁して実家に戻ったとしても、深雪の方ならば快く迎え入れてくれるに相違ない。父が選んだのは、そういう女であった。

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