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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第20章 決別

 が、かと言って、その好意や優しさに甘えることはできない。父は二十六の若さで泉水の母―つまり、最初の妻を喪った。以来、十二年間、男手一つで泉水を育ててくれた。
 むろん、当時、町奉行を務めていた源太夫は公務繁多で滅多と屋敷にいることはなかった。その代わりに、乳母の時橋が母代わりとして常に傍にいてくれた。それでも、父はたまに屋敷に戻ってくると、泉水と一緒に遊んで隠れ鬼をしたり、木刀の稽古を見たりしてくれた。
 許婚者の堀田祐次郎に先立たれて以来、婚約した相手の男を取り殺す物の怪憑きの姫と心ない噂が広まり、父はいたく心を痛めていた。当の泉水はそんなことなどちっとも気にしてはいないのに、父はたった一人の娘のゆく末を心から憂えていたのだ。
 それがやっと前(さき)の公方さまのお計らいで泉水の縁談が整い、娘は晴れて大身の直参旗本榊原家に輿入れすることになった。娘を無事に嫁がせた上で、源太夫はその年の秋に側室であった深雪と正式な祝言を挙げたのである。
 父には本当に心配のかけどおしであった。今、泉水が榊原の屋敷を出ることになれば、またしても父に心労をかけることにはなってしまう。
 しかし、泉水には、もう他に取るべき道はなかった。
 泉水は、すべてを知ったときの父の心中を思い、一人で涙を零した。それに、心残りはもう一つあった。生まれ落ちたその日からこれまでずっと影のように付き従ってきた時橋の存在である。時橋こそ真の母と呼べる女(ひと)であった。泉水と時橋は主従を越えた強い絆で結ばれている。その時橋と離れるのは身を切られるように辛かった。
 が、時橋と共にゆくことはできない。そんなことになれば、時橋に迷惑がかかることになるからだ。奉行の姫として大切にかしずかれ育てられた泉水は所詮は、世間知らずの姫君にすぎず、たった一人で世間に出て一体何ができるのかと問われても、何も返すべき言葉がない有り様だ。
 そんな泉水と行を共にすれば、時橋が苦労するのは明白である。幸いにも時橋には三人の娘たちがいて、それぞれに嫁いでいる。良人には先立たれてはいるが、この榊原の屋敷を出たとしても、いずれかの娘の許に身を寄せることができるだろう。

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