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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第20章 決別

 せめて行き先だけでも時橋には告げたいけれど、それではかえって時橋に累が及ぶ。何も言わずに出てゆくことが、長年の恩に報いる唯一のことであった。
 それに、現実として、泉水は行く当てとてないのだ。多分、この屋敷を出たところで、野垂れ死にしてしまう可能性の方がはるかに高いだろう。けれど、たとえ野辺の露となり果てたとしても、このまま肉欲に溺れ、男の慰みものになった挙げ句、狂うよりは、はるかに良い。
 母ともいえるひとに、最後にひと言だけ伝えたかった。
―今まで育ててくれて、ありがとう。
 と。
 泉水の眼から、ひとすじの涙が糸を引いて流れ落ちる。だが、その雫が涙なのか、湯水なのかは判らない。泉水は、ただ大粒の雫が頬をころがり落ちるに任せた。

 それから、しばらく後。あまりに湯殿から出てこぬ泉水を案じ、時橋が遠慮がちに声をかけた。
「お方さま、お湯加減はいかがにございますか? あまりに長湯をされては、お身体にも障りますよ?」
 しかし、何の応えもなく、湯殿の中はしんと静まり返って、水音一つ聞こえない。
 それでもなお、しばらく待ってみたが、泉水の返事はなかった。
 ふいに、時橋の中で不吉な予感が湧き起こった。
「お方さまッ?」
 時橋はもう躊躇わず、湯殿の引き戸を開けた。急いで広い湯殿の中を見回す。もうもうと白い湯気が立ち上る室内には、ただ満々と湯を張った檜造の湯舟が見えるだけで、どこにも泉水の姿はなかった。
―何ということ。
 時橋は我が身の迂闊さに歯がみした。せめて続きになった控えの間に腰元を一人残しておくべきであった。今日は泉水が時橋にでさえ裸身を見せることをひどく厭うため、結局、眼を離すことになったのだが、まさかその間に泉水が姿を消すとは思いもしなかった。
 そう言えば、と、時橋は今更ながらに思い出す。

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