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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第20章 決別

 泉水は十二の頃から男装しては屋敷を抜け出し、江戸の町にお忍びで出ていった。その度に時橋はくどいほど説教と訓戒を垂れ、〝二度となさってはなりませんよ?〟と念を押すのだけれど、結局は、ほとぼりが褪めた頃にまたしても、同じことをやらかすのだ。
 そうやって、何度も泉水は時橋の眼を盗んでは屋敷を脱出してきた。時橋は時橋で、次こそは抜け出すところを捕えて―と思うのだが、何故か泉水はいつも巧妙に立ち回って、いつしか姿を消してしまう。
 その都度、もぬけの殻の部屋を見ては嘆息するのが常であった。
―また、見事にしてやられましたね、姫さま。
 時橋はいつしか眼尻に浮かんだ涙をそっと袖で押さえた。
 いつもなら時橋には素直に湯浴みの介添えを任せる泉水が何ゆえ、今日に限って嫌がったか。むろん、逃亡を企てるためでもあったろうが、恐らくは、時橋にでさえ膚をさらしたくない理由があったのだろう。
 それは多分、昨夜の泰雅と過ごした一夜に拘わりがあるに違いない。閨の中で何が行われているか―、毎朝、泰雅が満足げな面持ちで表に帰った後、泉水は明らかに泣いたと思われる赤い眼をしていた。
 時には寝所から悲鳴やすすり泣きが聞こえてくることさえある。泉水が夜毎、どのような扱いを受けているのかを想像するのは容易であった。
 泰雅のとどまるところを知らぬ偏愛ぶりは、泉水をこんなにも追いつめていたのだ。いつだったか、ある朝、泰雅の帰った後、肩を震わせて泣きじゃくっていた泉水の儚げな後ろ姿がありありと瞼に蘇る。
 泉水の考えは手に取るように判った。敢えて時橋に何も告げずに姿を消したのは、時橋に余計な追及の手が及ばないようにするためだ。
 泉水が失跡したことを知れば、泰雅は激怒し、まず逃走を手伝ったとして疑われるのは時橋である。当然、そのゆく方について厳しく詮議されるだろう。しかし、泉水のゆく先を知ることがなければ、応えようもない。聡明な泉水はそこまで考え抜いた上で、時橋に黙って、いなくなったのだ。
 時橋は、静かに涙を流し続けた。
―姫さま、姫さまは今いずこに。
 だが、時橋の叫びは泉水には届かない。

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