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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第20章 決別

 それより少し前のことになる。泉水はあらかじめ用意していた小袖や袴を身につけ、榊原の屋敷の塀を乗り越えたところであった。着物は湯殿とは続いた控えの間(脱衣所)の片隅に見つからぬように隠しておいた。薄紅色の小袖に濃紫の袴は、泰雅の好みで仕立てたきらびやかな打掛や小袖よりもよほどしっくりと身に馴染む。
 この姿になると、本来の自分に戻ったような、肩の荷を降ろしたような軽やかな気分になれる。身軽にひょいと塀を乗り越え、鮮やかに着地を決めると、泉水は両手を持ち上げ、うーんと思い切り伸びをしてみた。
 外に一歩出ると、意外にまだ強い陽差しが道を照らしていた。榊原泰雅の妻としてこの屋敷で暮らしたのは、わずかに一年八ヵ月に満たない間のことであった。
 それでも、たとえ短くとも、泰雅と夫婦として心通わせ、この男(ひと)の傍にいて、その笑顔を見ていられるだけで良いと、一緒にいて幸せだと思ったことも確かにあったのだ。けして辛いこと、哀しいことばかりだけの日々ではなかった。今、心からそう思える自分に、泉水は少しだけホッとしていた。
 敢えて後ろは振り向かなかった。一体、自分はこれからどこにゆくのだろう。どこにも行く当てのない寄る辺なさを思うと、心細さが一挙に波のように押し寄せてくる。
 が、すぐに泉水は思い直した。死んでも良いと、それだけの覚悟を持って出てゆくのだ。たとえ、これから先、どこで倒れ伏そうと、儚くなろうと、それならそれで良い、それが自分の運命なのだから。
 ここではないどこかなら、どこだって良い。
「ここではない、どこか遠くへ―」
 泉水は呟いた。
 眼の前に真っすぐに伸びた一本道に最初の一歩を踏み出した。神無月の半ばを過ぎた、ある朝のことであった。

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