胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第21章 新しい生活
《巻の参―新しい生活―》
澄んだ蒼が涯(はて)なくひろがる空を、鳥が飛翔してゆく。あれは一体、何の鳥だろうかと考えをめぐらしつつ、空を見上げていると、今度ははるか下方でニャーともフギャーともつかない獣の鳴き声が響き渡る。視線をゆるゆると動かしてみると、泉水が登っている樹の根許で黒猫が隣家の犬とじゃれ合っている―のか、喧嘩しているのかはよく判らない。
とにかく目下のところ、黒猫が犬に追いかけられ、一方的に逃げ回っているようには見える。
「あれじゃあ、本当に仲が良いのか悪いのか、判らないわね」
泉水は肩をすくめた。
この村に来て、はや半月が経った。江戸から少し離れた近在の村は、百姓がささやかな田畑を耕して生計を立てている、本当な小さな、鄙びた農村だ。
江戸を出て東へとのびた主街道から二つめの宿場町へ至るまでに脇道がある。その脇道に入り、更に途中で二手に分たれた小さな枝道を少し行った先に、その村の入り口があった。夏には螢が群舞する名所として遠く江戸からもわざわざ見物にくる人がいるという〝〝螢ヶ池〟。ここはまた、睡蓮の群れ咲く名所としても知られている。
螢ヶ池のほとりに、道祖神を祀った小さな祠が佇んでいる。泉水がこの村を住み処に選んだのは、全くの偶然にすぎなかった。とにかく江戸からできるだけ離れようと、江戸を発って主街道を進んでゆく中に、脇道があった。そのたまたま眼についたにすぎない道に、これからの自分の人生を重ねてみようと思ったのである。
幸いにも脇道を少し歩いたところで枝分れした小道を更に辿ってゆくと、小さな村があった。江戸からも適度に離れており、ひっそりとした農村は女一人がささやかに暮らすにはふさわしかった。
泉水は村外れの空き家を借りた。板の間と続きになった六畳の部屋が二間あるだけの、至って粗末な藁葺き屋根の仕舞屋であった。それでも小さいながら内風呂がついているのは当時としては珍しく、夕刻になって一人で伸び伸びと手脚をのばして湯に浸かる贅沢ができる。
近くにある竹林が風でさわさわと葉を揺らす音に湯殿(と呼べるほどの代物ではないが)の小さな浴槽に浸かって耳を傾けていると、波の音を聞いているような錯覚に陥る。寄せては返す波の音、遠くでざわめく潮騒の詩(うた)。
澄んだ蒼が涯(はて)なくひろがる空を、鳥が飛翔してゆく。あれは一体、何の鳥だろうかと考えをめぐらしつつ、空を見上げていると、今度ははるか下方でニャーともフギャーともつかない獣の鳴き声が響き渡る。視線をゆるゆると動かしてみると、泉水が登っている樹の根許で黒猫が隣家の犬とじゃれ合っている―のか、喧嘩しているのかはよく判らない。
とにかく目下のところ、黒猫が犬に追いかけられ、一方的に逃げ回っているようには見える。
「あれじゃあ、本当に仲が良いのか悪いのか、判らないわね」
泉水は肩をすくめた。
この村に来て、はや半月が経った。江戸から少し離れた近在の村は、百姓がささやかな田畑を耕して生計を立てている、本当な小さな、鄙びた農村だ。
江戸を出て東へとのびた主街道から二つめの宿場町へ至るまでに脇道がある。その脇道に入り、更に途中で二手に分たれた小さな枝道を少し行った先に、その村の入り口があった。夏には螢が群舞する名所として遠く江戸からもわざわざ見物にくる人がいるという〝〝螢ヶ池〟。ここはまた、睡蓮の群れ咲く名所としても知られている。
螢ヶ池のほとりに、道祖神を祀った小さな祠が佇んでいる。泉水がこの村を住み処に選んだのは、全くの偶然にすぎなかった。とにかく江戸からできるだけ離れようと、江戸を発って主街道を進んでゆく中に、脇道があった。そのたまたま眼についたにすぎない道に、これからの自分の人生を重ねてみようと思ったのである。
幸いにも脇道を少し歩いたところで枝分れした小道を更に辿ってゆくと、小さな村があった。江戸からも適度に離れており、ひっそりとした農村は女一人がささやかに暮らすにはふさわしかった。
泉水は村外れの空き家を借りた。板の間と続きになった六畳の部屋が二間あるだけの、至って粗末な藁葺き屋根の仕舞屋であった。それでも小さいながら内風呂がついているのは当時としては珍しく、夕刻になって一人で伸び伸びと手脚をのばして湯に浸かる贅沢ができる。
近くにある竹林が風でさわさわと葉を揺らす音に湯殿(と呼べるほどの代物ではないが)の小さな浴槽に浸かって耳を傾けていると、波の音を聞いているような錯覚に陥る。寄せては返す波の音、遠くでざわめく潮騒の詩(うた)。