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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第21章 新しい生活

 そんな風に思え、我ながら随分と遠くへ来たものだと今更ながらに思い、心細さに涙さしぐまれるのだった。
 それでも、ここでの暮らしには自由がある。何不自由のない生活、すべてを失った代償として、泉水は限りない自由を手に入れることができた。これ以上を望めば、罰(ばち)が当たるというものだった。
 簡素な一軒家とはいえ、曲がりなりにも家を借りるとなれば、金が要る。泉水は江戸を出る間際、持ち出してきた装飾品―嫁入りに持ってきた蒔絵の櫛や笄(こうがい)、簪(かんざし)一切を古道具屋に売り、金に換えた。
 もちろん、入輿してきてから、泰雅から与えられたり贈られたものはすべて屋敷にそのまま置いてきた。泰雅が外歩きのための護身用にとわざわざ泉水のためにこしらえた剣でさえ、きちんと床の間の刀掛けに置いてきたのだ。
 泰雅から与えられた物はたとえ簪一本といえども、持ち出さなかった。そのことで、泉水は榊原家とも泰雅とも一切縁を切るのだという覚悟を示したつもりである。
 今、泉水の一日はゆったりと過ぎていっている。朝起きて、顔を手早く洗い、村長(むらおさ)の住まいに行って、集まった子どもたちに読み書き、手習いを教える。言わば、この村の〝にわか寺子屋〟の教師が今の泉水の仕事であった。
 江戸を出る際、換金した装飾品はかなりのまとまった金子になった。いずれも父源太夫が娘のためにと一流の細工師の手になる品々を買い求め、取り揃えたからである。折角こしらえてくれた父には申し訳ないと思ったけれど、今はとにかく生きてゆくことだけを考えねばならなかった。
 その金子のお陰で、こうして小さいけれど家を借り受けることも叶った。村に住むようになってすぐ、村長だという老人の屋敷に挨拶にいった。
 その時、仕事を探しているのだと話したら、読み書きはできるかと訊ねられた。もとより、三千石取りの槇野家に生まれ育った和泉は読み書きはむろん、難解な漢籍までをもすらすらと淀みなく読みこなす。その他に、時橋に幼い頃より教わったお陰で、仕立て物の心得はあったものの、こんな貧しい村にわざわざお針子に着物の仕立てを頼むような者はいない。

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