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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第21章 新しい生活

 それに、泉水には旗本の奥方として何不自由のない暮らしが保証されており、その日一日を過ごせるかといった生活苦は一切なかった。それなのに、榊原家での生活が辛抱できなかった自分はやはり世間知らずの我が儘な娘なのかと思う。
 それはともかく、寺子屋の師範の報酬はたいした収入にはならなかったけれど、村に溶け込むには大いに功を奏した。突如として出現し村に住みつくようになった泉水は〝寺子屋の女先生〟と呼ばれ、そのお陰で予想外に早く村の一員として迎えられることになった。泉水の寺子屋に通う子どもたちは大方、六歳から十歳前後で、その親たちが束脩(謝礼)として持ってくるのは、米や野菜などで、むしろ現金よりは、食物や薪の方が多かった。
 それだけでも、泉水一人の暮らしには十分とはゆかずとも、大いに役立ち助かった。村長の家にゆかない日は、こうして家の前に立つ銀杏の大樹に登り、空を眺めて過ごす。
 このひとときが、まさに至福の一瞬だった。こうして一日中、空を眺めていても、誰にも何を言われることもない。誰はばかることない泉水一人の時間であった。
 もっとも、ここにあの口うるさくも、心優しい乳母がいないことは、とても淋しい。生まれてからずっと十八年間、時橋と離れて過ごしたことなどなかったからだ。さしずめ、母親と離れて暮らす娘が親を恋うといったところだろうか。
 時橋のことは今でも心残りだった。あれから、どうしたであろうか。泉水の失踪に気付いた泰雅に辛く当たられてはいないだろうか。それとも、もう既に榊原の屋敷を出て娘の許に身を寄せただろうか。そうは思っても、今の泉水は、どうすることもできない身であった。
―時橋、ごめんね、許して。
 今は、心の中で謝るしかない。もし、ずっと先、泉水がもっとしっかりと一人で生きてゆくことができるようになった時、時橋を呼び寄せ共に過ごすことが叶えば良い。
 そのときこそ、遅まきながら、親孝行の真似事なりともしたい。今はその日を一日も早く迎えるためにも、一日一日をきちんと過ごして、生活の礎を確かなものにしたい。
 だが、と泉水は暗澹たる想いに囚われる。果たして泰雅があっさりと諦めてくれるだろうか。泉水としては、泰雅に正式な去り状(離縁状)を書いて欲しいと考えている。

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