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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第21章 新しい生活

 泉水は叫び返すと、慣れた様子で銀杏の樹の幹をつたい、するすると下まですべり降りてくる。少し上方の枝にぶら下がり、〝よっ〟と掛け声と共に勢いをつけて地面に飛び降りた。
 その器用な身のこなしを、若い男が呆れたように眼を丸くして眺めている。
「全っく、猿並に器用というか、身軽というか。だが、何度言い聞かせたら、判るんだ? 木登りなんぞ若い娘のすることじゃねえ。万が一、落っこちたら、生命はねえぞ?」
 この男は篤次(とくじ)といい、隣の家に住む若者だった。歳は二十三になるという。隣の家といっても、歩けば四半刻はゆうにかかる距離だ。小さな村とひと口に言っても、広範囲に渡って、ぽつぽつと十数件の人家が点在している。
 篤次の二親は早くに亡くなったと聞いた。たった一人の妹は二つ違いで、きくといったが、もう十年も前に女衒に連れられ、江戸に行ったきりだ。
 篤次の両親は飢饉の年、やむなく娘を身売りしたのだ。その時、おきくは十一歳だった。
 篤次は兄として、この妹には格別の想いを抱いているらしかった。無理もない、おきくが売られていったのは、篤次が十三の冬のことである。まだ少年だった彼は、売られてゆく妹に何一つしてやることができなかった。そのことが、ずっと、篤次の心の底に澱のようにわだかまっているのだ。
 篤次は今、少しずつ金を貯めていると話している。いつか近い将来、まとまった金を持って江戸に行き、離れ離れになった妹を買い戻してやるのだと言った。遅まきながら、ずっと苦労のさせ通しだった妹に人並の暮らしをさせてやりたいのだとも。
 その篤次の気持ちは、よく判った。泉水はその話を聞いた時、篤次に言ったものだ。
―私にも夢があるの。いつか呼び寄せたい人がいるのよ。
 篤次は一瞬、眼を見開いた。
―その呼び寄せたい人ってのは、男か?
 幾分訊きにくそうに問うのに、泉水は眼を丸くした。
―まさか、違いますよ。その人は、私にとっては大切な人。お母さんのような人とでも言えば良いのかしら。私を生まれたときからずっと育ててくれた人なんです。
 そして、大仰に首を振って真顔で言った。
―それに、もう男の人と一緒に暮らすだなんて二度とご免だわ。男はこりごりです。
 そのときだけ、篤次の顔色が少し濃くなった。

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