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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第21章 新しい生活

―お前、男から逃げてきたのか?
 その刹那、泉水はハッとした。喋りすぎてしまったことを後悔した。篤次といると、まるで本当の兄といるように安らげて、つい何でも思ったことを口にしてしまう。
 だが、それは極力用心せねばならぬことである。篤次は口の固い、真面目な男だ。男気もあるし、誠実でもある。泰雅のように優雅でも女を口説く術を心得ているわけでもない。
 朴訥で、気の利いた科白一つ言うわけではなかったけれど、その分、信頼できる男だという印象がある。篤次から泉水についてのあれこれが洩れ、ひろまるという心配は殆どないだろうが、村には詮索好き、噂好きの連中もいるのだ。
 もし、泉水がここに隠れ住んでいることが江戸にまで伝わったとしたら、それは泉水の最も怖れることだ。
 急に黙り込んだ泉水を見て、篤次はそれ以上深く訊ねようとはしなかった。そんなところにも、篤次という男の控えめな優しさが偲ばれる。
 泉水の脳裡に、初めて篤次と出逢った日の記憶が蘇る。今から半月ほど前のことになる。泉水が初めてこの小さな村にやって来た日のことであった。
 その日、泉水は長旅の疲労と緊張から憔悴しきっていた。どこへ行くという目的もない旅は終わりがないようにも思え、半ば自棄のような気持ちもあって、偶然眼に入った脇道に分け入ったのである。
 その時、脇道を少し歩いた先に、更に枝分れした小道があった。一体、どちらの道に進めば良いのか―、歩きどおしであった脚は鉛のように重く、もう一歩たりとも歩きたくはない気分であった。
 一刻も早くどこかに腰を下ろして休みたい、ただそのことだけを考えていた。もし辿り着いた先が行き止まりであったら―と思うと、どちらの道にも進めず、途方に暮れていたのだ。そんな折も折、右方向に分岐する道の向こうから、篤次が歩いてきたのに出くわした。
 泉水が手短に事情を話すと、篤次は親切に村へ行く道順を教え、わざわざ自分も引き返して村の入り口にもなる螢ヶ池まで案内してくれた。螢ヶ池にはその時、薄紅色の睡蓮が小さな池の面を埋め尽くすように群れ咲き、秋の夕風にかすかに揺れていた。

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