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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第21章 新しい生活

 その群生する睡蓮の池の上を夕陽の色に染まった赤蜻蛉(とんぼ)が戯れ飛んでいる。蜜色の光を浴び、小さな辻堂が池の汀にひっそりと佇んでいた。まるで一幅の絵のように美しい、茜色に染まった情景が鮮烈な記憶となって残った。
 いつか自分が死んだときには、あのような場所へ魂は還ってゆくのだろうか―と、ふと思った。そのときの泉水の眼には、初めて眼にする小さな村外れの一風景があたかも死者が赴くという西方浄土に見えたのである。
 篤次は泉水の話を聞いた上で、村長の家を訪ねることを勧めた。篤次に連れられ村長を訪ねた泉水は、その夜は面倒見の良い村長の家に泊めて貰い、翌日、再び篤次の案内で村の外れにあるという村長の持ち家に行った。
 その空き家を借り受けることができるように口添えしてくれたのも篤次であった。こうして、泉水はこの小さな村にやっと自分の居場所を見つけることができたのである。
 それ以後も、篤次は度々、泉水の家を訪れた。初めてやって来たときには、丁度、家の前にある銀杏の樹に登っていて、篤次をたいそう愕かせたものだ。
―こんな大きな樹に登る女は、この村にもいやしねえ。
 と、半ば賞賛するようでもあり、半ば呆れるようでもあった。
 が、すぐその後で、真顔で言った。
―度胸があるのは良いが、万が一、落ちたらどうする? あんな高いところから落ちたら、生命の保証はねえぜ。
 まるで兄がお転婆な妹をたしなめるような口調だった。その口ぶりに、泉水は今では遠く離れてしまった時橋を思い出した。
 愁い顔になった泉水の髪をくしゃっと撫で、篤次は笑った。
―女一人の暮らしは物騒だから、よくよく気をつけな。この村にも血の気の多い若え男はいる。そうでなくとも、新しくできた寺子屋の女先生はたいそうな別嬪だと村中の噂になってるからな、十分気をつけるんだぞ? 夜には必ず戸締まりをきちんとすること、良いな?
 くどいほど何度もそう念を押した。どうやら、その時、篤次は泉水の身を案じて、わざわざ様子を見にきたらしかった。そうしたら、何と、泉水が村の娘でさえ登ったことのないという大木のてっぺんにいたものだから、仰天したらしい。
 今でも時々、そのときの愕きを笑い話にして面白おかしく話題にすることがある。

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