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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第21章 新しい生活

 急に寒風が吹き、ざわざわと黄金色の葉がこすれ合い、ざわめく。冷たさを増した風が身に滲みた。
―あの男(ひと)は、今頃、どうしているだろうか。
 ふと、泰雅の面影が脳裡をよぎってゆく。不思議なことだった。あの男から逃れたい一心で榊原の屋敷を出て、逃げるように江戸を離れた。すべてを捨てて、一からやり直すつもりで、この村に来たのだ。
 なのに、今でも泉水はあの男を愛している。夜が来る度に、泉水の身体を欲しいままにし、泉水は自分が慰みものとしてしか扱われない屈辱に何度も涙した。
 閨の中で、淫らな姿態をするようにと命じられ、いやがって拒めば、容赦のない荒々しさで組み敷かれた。夜が来るのが怖くて、また、今夜も泰雅のお渡りがあるのかと思うだけで、怖ろしさに身が竦みそうになった。
 二人の間には最早、決定的な溝ができていたはずだ。だが、そのときですら、泉水は男に惚れていた。自分を陵辱する男を憎み切れなかった。男への思慕を抱えたまま、それでも一緒にはいられないと思い、屋敷を出た。
 それは一見、矛盾しているかのようだけれど、泉水は本気で泰雅を想っている。想っているのに、受け入れられない。触れられると、逃げ出したくなる。泰雅はその泉水の心を敏感に察知し、苛立つ。そして余計に泉水を責め苛むのだ。そんな悪循環の繰り返しだった。
 泉水が屋敷を飛び出したことで、泰雅はさぞ憤ったことだろう。殺してやりたいと、憎まれているかもしれない。
 それでも、こんな状況になってさえ、泉水は愛する男のために祈らずにはおれなかった。どうか、あの男(ひと)の心が傷つかず、壊れることなく、安らかでありますようにと願わずにはいられない。
 今の泉水には、それくらいのことしかできない。だから、泉水は朝に夕に、神仏に祈った。自分は確かに世間一般の枠には入り切らぬ人間なのだろう。
 普通なら、好きな男に触れられるのは歓ばしいことなのに、泉水はそれを歓びとは思えず、むしろ苦痛にしか思えない。いつか泰雅にも再び、意中の女人が現れ、今度こそ、その女人と幸せな―ごく常識的な夫婦になれるに違いない。
 自分は、泰雅の望むような妻にはなれなかった。そう考えてゆけば、責任は泉水にもある。泉水は、泰雅に一日も早く、そんな女人が現れることを祈った。まさか、篤次が少し離れた場所から、自分を見ているとは予想だにしなかった泉水であった。

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