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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第21章 新しい生活

 一方、篤次は、そんな泉水を見ていられなかった。その横顔があまりに淋しげに見え、たまらず声をかけた。呼び止めることで、現世(うつしよ)に泉水の魂を繋ぎ止めようとしたのだ。さもなければ、次の瞬間には、泉水の姿が消えてしまうのではないかという恐怖に囚われた。
 夕陽を浴びた泉水の華奢な身体は、あまりにも儚かった。夕陽に透けて、そのまま光と同化して消えてしまうのでは―と危ぶまれるほどであった。その姿には、崖っぷちに立たされた女の悲哀、狂と現(うつつ)(正気)のぎりぎりのところで辛うじて踏みとどまっている危うさが透けて見えるようでもあった。
 この娘に過去に何があったのかは判らない。しかし、言葉の端々から、娘が男から逃げてきたのではないかという見当はついた。その男が娘にとって何なのか、良人か、あるいは恋人、許婚者といったところだろうか。
 泉水は普段は明るいのに、突如として黙り込んだり、塞ぎ込むことがある。当人は考え事をしているのだとごまかすが、ああいうときは恐らくは男のことを思い出しているに違いない。
 一体、男は、どうして泉水をあそこまで追いつめたのだろうか。無邪気な娘に、あんな淋しげな、哀しそうな表情(かお)をさせるのか。篤次には到底、理解できなかった。
「女先生」
 背後で急に呼ばれ、泉水は眼を見開く。虚ろだった瞳に、わずかに光が戻った。
「どうしたんだ? もうそろそろ陽も暮れる。いつまでも、こんなところに座ってちゃア、風邪を引いちまうぜ」
 不自然なほど明るい声なのは、泉水の気を引き立てようとしてくれているのだと判る。
 篤次は嘘はつけない質なのだ。いかにも、この男らしい不器用な優しさであった
「ここのところ、畑の方が忙しくてな、様子を見にこれねえで、申し訳ねえ」
 篤次が続けると、泉水が突如として叫ぶように言った。
「ね、見て、夕陽がとても綺麗。まるで燃えているみたい」
 泉水が篤次の先の言葉を聞いていないのは明らかであった。
「燃えて―燃え尽きるかのようだわ」
 語尾が震えている。
 篤次がハッとして振り向くと、泉水の頬をつうっと涙がすべり落ちていった。
 夕陽に照らされた泉水の頬が濡れている。

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