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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第22章 散紅葉(ちるもみじ)

《巻の四―散(ちる)紅葉(もみじ)―》

 その朝、泉水はふと思い出して、寝室として使っている畳の間の姫鏡台の引き出しを開けた。朱塗りに桜の桜の蒔絵が施されたそれは、村長からゆずり受けたものである。
 亡くなった女房が隣村から嫁いできた遠い昔に嫁入り道具として持参したといい、流石に富裕な豪農の長女として何不自由なく育ったというだけはある。こんな田舎の鄙びた村でお眼にかかることはないような逸品であった。
 もっとも、そんな品も泉水がいつも使っていた鏡台の見事さや豪奢さには、はるかに及ばなかったが、今の泉水にとっては思いもかけぬ嬉しい贈物であった。
 江戸を離れる際、身を飾る類のものはすべて売ってしまったし、榊原の屋敷で使っていた鏡台は大きくて到底持ち運びできるようなものではない。少々塗りが剥げかかっている箇所を除けば、見ためも十分に美しい姫鏡台であった。
 村長には子どもがいない。従って、妹の倅を養子に迎えている。村長は女房の死後もずっと大切にしていたその形見を、泉水に使って欲しいと譲ってくれたのだ。可愛らしい小さな鏡台を眺めているだけで、沈んだ心も何とはなしに浮き立ってくる。
 こんなときは、やはり男のなりが好きでも、中身は女なのだなと、自分でも納得しないわけにはゆかない。
 折角貰った姫鏡台だが、目下のところ、朝と夕にほんの短い間、鏡に映して髪を梳くくらいのものである。
 引き出しに入れる簪の一つもない。だが、たった一つだけ、何があっても売らないと決めているものがあった。
 泉水は姫鏡台についている一番上の引き出しを開けると、そっと小さな鏡を取り出した。
 黒塗りの小さな姫鏡は、泉水の手のひらにすっぽりとおさまってしまうほどの大きさで、塗りの部分に紅葉の模様が金蒔絵で施されている。鴇色(ときいろ)の全体に紅葉が散った柄のこれも小さな巾着に入っている。
 この鏡は銘を〝散(ちる)紅葉(もみじ)〟という。泉水の今は亡き母貴美子が姫の生誕をたいそう歓んで、守り鏡として細工師に作らせたものだ。十一月生まれの泉水には紅葉がふさわしいと、これも自ら紅葉の柄を描くようにと注文したそうだ。

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