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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第22章 散紅葉(ちるもみじ)

 貴美子は京都のれきとした公卿権中納言藤原家の出身である。柳のようにたおやかな佳人であったというが、泉水には母の記憶は殆ど残っていない。生来病弱であった母は、泉水を生んでからというもの、更に衰弱した。
 元々、心ノ臓が弱く、発作を繰り返していたのだ。そんな母であってみれば、自ら乳を含ますこともなく、泉水は生まれ落ちてすぐ、乳母の時橋の手に委ねられた。泉水誕生の後、母は殆ど寝たきりの状態になり、泉水が五歳のときに亡くなった。
 その時、母はまだ二十五歳であった。
 ゆえに、母の腕に抱かれて思いきり甘えたという想い出の一つもない。
 むろん、そのことで母を恨めしく思ったことはない。むしろ、生命を賭けて自分を生んでくれたことを心から感謝している。
 母の侍医は、出産が生命取りになる危険性を指摘し、父もまた、無理をする必要はないと母を諭した。が、母は折角宿った生命を流すことはできないと言い張り、泉水を生んだのだ。
 しかし、ただ美しい女人であったという印象を除けば、その容貌さえ定かには憶えていない泉水にとって、母が遠い存在であることに変わりはない。十八年間ずっと一緒に過ごしてきた乳母時橋の方がよほど馴染み深く、〝母〟と呼べるような気がする。
 泉水は、母の唯一の形見であるこの懐(ふところ)鏡(かがみ)をいつも懐中に忍ばせている。この小さな、たった一つの鏡が自分と顔さえろくに憶えてはおらぬ母を結びつけるよすがであった。鴇色(ときいろ)の美しい巾着から鏡を取り出し、そと覗き込んでみる。鏡の中から、黒眼がちの大きな眼の娘がこちらを見ていた。
 泉水は自分をとりたてて美しいとも綺麗だとも思ったことがない。父源太夫もなかなかの男ぶりではあるが、泉水は父よりも、むしろ亡くなった母に似ていると父は言っていた。
―かかさまも姫のように雪のような膚をして、黒い大きな眼をしていたよ。
 幼かった泉水に、父はそう母の面差しを語って聞かせた。だが、泉水自身は、我が身が佳人で評判だったという母にそれほど似ているとは思えない。もう直、十九になるというのに、いつまで経っても小娘のような童顔で、もう少し大人の女人らしくなりたいとひそかに願っているほどなのだ。
 母と父は当時としてはお定まりの見合結婚で、婚礼の夜に初めて顔を合わせた―それが出逢いだったようだ。

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