胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第22章 散紅葉(ちるもみじ)
しかし、父は母をこよなく愛し、母もまた、父を一途に慕った。両親の仲睦まじさは家臣たちの間でも評判であったと聞く。
父が母の死後、長らく後添えを娶ろうとしなかったのは、泉水のためを思ってのことはむろんだけれど、やはり、最愛の女人を忘れがたかったためかもしれない。そういえば、槇野家に古くから仕える老臣―榊原家に嫁した泉水に付き従ってきた坂井琢馬は、父の二度めの妻深雪の方の容貌が在りし日の母貴美子にどことなく似ていると洩らしたことがある。
もしかしたら、父は母がこの世を去って十五年近くを経た今もなお、心のどこかで母を想っているのかもしれない。泉水にとっては馴染みも薄く、記憶も朧だが、烈しい恋に身を灼いた一人の女性、同じ女として考えてみた時、母が俄に身近に感じられるような気がする。
二十五年という女の生涯はあまりにも短く儚いものではあっても、男に愛され、また、自らも男を愛し抜いての一生であれば、まだしも幸せであったのではないか。
泉水はなおもしばらくの間、小さな鏡を覗き込みながら、ひとしきり、かつての母の心持ちに想いを馳せていた。
夕刻になって、篤次がふらりと思い出したように訪ねてきた。裏山の紅葉が盛りだから見にゆかないかと誘われ、共に見にいった。
山といっても、泉水の住まいの建つ丘と大差ないほどの小山だ。その中腹に、大きな紅葉の樹がひっそりと佇んでいる。
二人が行った時、折しも今が見頃とでも言わんばかりに、真っ赤に色づいた葉が鮮やかであった。風もないのに、時折、赤子の手に似た小さな葉がはらりはらりと散り零れる。
田舎の、しかも裏山の人眼に立たぬ場所でも、このような風情のある光景を眼にすることができるのだと、泉水は驚嘆とも賛嘆ともつかぬ想いで眺めた。
大きな眼をいっぱいに開いて秋の織りなす美しき光景に見入っている泉水を、篤次は嬉しそうに見ていた。
橙色の夕陽がただでさえ紅に染め上がった葉を更により鮮やかに色づかせる。しばらく二人してその光景を眺めた後、泉水の家まで戻った。それから家の前の銀杏の樹に篤次が登り、たわわに実った実を取った。
父が母の死後、長らく後添えを娶ろうとしなかったのは、泉水のためを思ってのことはむろんだけれど、やはり、最愛の女人を忘れがたかったためかもしれない。そういえば、槇野家に古くから仕える老臣―榊原家に嫁した泉水に付き従ってきた坂井琢馬は、父の二度めの妻深雪の方の容貌が在りし日の母貴美子にどことなく似ていると洩らしたことがある。
もしかしたら、父は母がこの世を去って十五年近くを経た今もなお、心のどこかで母を想っているのかもしれない。泉水にとっては馴染みも薄く、記憶も朧だが、烈しい恋に身を灼いた一人の女性、同じ女として考えてみた時、母が俄に身近に感じられるような気がする。
二十五年という女の生涯はあまりにも短く儚いものではあっても、男に愛され、また、自らも男を愛し抜いての一生であれば、まだしも幸せであったのではないか。
泉水はなおもしばらくの間、小さな鏡を覗き込みながら、ひとしきり、かつての母の心持ちに想いを馳せていた。
夕刻になって、篤次がふらりと思い出したように訪ねてきた。裏山の紅葉が盛りだから見にゆかないかと誘われ、共に見にいった。
山といっても、泉水の住まいの建つ丘と大差ないほどの小山だ。その中腹に、大きな紅葉の樹がひっそりと佇んでいる。
二人が行った時、折しも今が見頃とでも言わんばかりに、真っ赤に色づいた葉が鮮やかであった。風もないのに、時折、赤子の手に似た小さな葉がはらりはらりと散り零れる。
田舎の、しかも裏山の人眼に立たぬ場所でも、このような風情のある光景を眼にすることができるのだと、泉水は驚嘆とも賛嘆ともつかぬ想いで眺めた。
大きな眼をいっぱいに開いて秋の織りなす美しき光景に見入っている泉水を、篤次は嬉しそうに見ていた。
橙色の夕陽がただでさえ紅に染め上がった葉を更により鮮やかに色づかせる。しばらく二人してその光景を眺めた後、泉水の家まで戻った。それから家の前の銀杏の樹に篤次が登り、たわわに実った実を取った。