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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第3章 《囚われた蝶》

 泰雅が泉水を好きだというのは、本当なのだろうかと疑いたくなる。昨夜の泰雅のふるまいは、ただ己れの獣じみた欲望に突き動かされていただけにすぎないのではないか。もし仮に心から泉水を大切に思ってくれているならば、あんな手酷い扱いはしないのではないか。
 今朝、泉水は目覚めてすぐに時橋を呼び、槇野の屋敷に帰ってきた。既にその時、泰雅の姿は寝所にはなかった。泉水は泣き出しそうになるのをこらえながら、周囲に散らばった寝衣を身につけた。駆けつけた時橋は泉水のうちひしがれた様子を見て、すべてを悟ったようだった。
 何より、寝乱れた夜具は、そこで昨夜何があったのかを十分に物語っていた。
「姫さま」
 泉水が嫁いでもなお、子どもの頃からのように“姫さま”と呼ぶのを、泉水は口ではたしなめても内心は嬉しかった。
 時橋は何も言わなかったけれど、ただ泉水を抱きしめてくれた。帯を結ぶ手が震えているのを見て、そっと手を添えて代わりに結んでくれた。
 乳母としては、泉水がついに良人泰雅と晴れて結ばれたことには歓びと安堵を感じる一方、泣き腫らした泉水の眼はこの出来事が彼女にとって意に添わぬものであったことを示している。
 時橋は深い詮索はせず、ただ泉水の命ずるままに実家に帰ると言い張る泉水に付き従った。お転婆で悪戯好きではあったが、物心ついた頃より、泉水が我が儘を言って困らせたことはない。それが一途に帰りたいと一点張りであるのには、よほどの事情があると思えたからだ。
 突如として婚家から帰ってきた娘を見て、源太夫は取り立てて何も言わなかった。
 恐らく源太夫も時橋と同様、娘の突然の帰還に、並々ならぬものがあると察しているに相違ない。破天荒ではあるが。、けして利の通らぬことをしでかす娘ではないと、源太夫もまた娘を信頼していた。
 泉水は今、嫁ぐまで住み慣れた実家の屋敷の居間に座り、庭を眺めていた。初夏のこととて、障子はすべて開け放ち、縁づたいに続く小庭が見渡せる。小庭には数本の芍薬が植わっており、大輪の花を誇らしげに咲かせている。

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