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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第22章 散紅葉(ちるもみじ)

 泉水は首を振った。いけない、こんなことでは駄目だ。人が、人を信じられなくなったら、それでおしまいだ。たとえどんな境涯に陥ったとしても、人を信じる心だけは失いたくない、失ってはならない。泉水は絶望の深淵へとまっさかさまに呑まれてゆこうとする自分を感じ、その怖ろしさに身震いした。
 それほどに、自分の絶望と苦悩は深いのか。当の自分ですら、推し量れないほどに。
 物想いに耽っていると、思い出したくもない忌まわしい想い出が次々と眼裏に蘇る。
 榊原の屋敷の一室で夜毎、繰り返された汚辱の記憶は今でもあまりに生々しく、泉水の心を鋭く抉った。
 泰雅は泉水の体調も苦痛にも頓着せず、夜になればやって来て、褥を共にする。拒めば、後でそれ以上に責め苛まれることが判っているゆえ、大人しく抱かれるしかなかった。
 白い靄にも似た湯げむりの中に、ふくよかな乳房がほの見える。泰雅は泉水を傷つけたことはなかったけれど、かつて恥じらうようにささやかなへこみを見せていた乳首は今ではくっきりと膨らみの先に現れている。けして元の形に戻らない突起は、積み重ねた淫事を物語っていた。彼女はそっと指で触れてみながら、これも確かに傷痕の一つには違いないのだと思った。
 その時、コトリと小さな物音が響いた。泉水はハッと我に返り、音のした方を見る。湯気を逃すために、明かり取りの小窓を開けていて、どうやら物音はそこから聞こえてきたらしい。弾かれたように面を上げて様子を窺うと、小窓の向こうに覗いた男の貌が映じた。
「―!」
 泉水は烈しい衝撃と恐怖のあまり、小さな声を上げた。
「あ―、あ」
 あまりの怖ろしさに、声さえ出ない。
 窓の向こう側に依然として男の貌がかいま見えることに気付き、慌てて露わな胸を両手で遮った。男のねっとりとした視線が泉水の身体中を這い回っている。
 泉水は悲鳴を上げ、急いで湯舟から出た。その拍子に、浴槽の湯が音を立てて外へ零れ落ちる。
 泉水は逃れるように湯殿を出て、畳の間に駆け込んだ。見まちがえるはずもない。あれほど整った容貌の男がそうそういるはずもなく、あの男―先刻、湯殿の小窓から覗いていたのは紛れもなくかつての良人榊原泰雅であった。

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