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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第22章 散紅葉(ちるもみじ)

 それでも、泉水は毅然として前を向いていた。自らをいささかも恥じもせず卑下することもなく、凜とした様子で従容として死に向き合おうとしていた。もし、この時、泉水が少しでも泣き喚いたり、取り乱したりしていたら―、泣いて許しを乞い、泰雅に取り縋っていれば、泰雅は泉水を可愛い哀れな女だと思い、許してやっていただろう。
 だが、泉水は、少しも動じることはなかった。
 恐らく、あの女は本当に泰雅の手にかかって死ぬつもりだったに相違ない。その落ち着き払った態度や死をも怖れず受け入れようとする潔さを憎いと思った。
 それでもなお、泰雅は泉水に言った。
―愛してる、俺にはお前が必要なんだ。
 けれど、泉水は泰雅が差し出した手を最後まで取ろうとはしなかった。この時、泰雅はこの女をやはり許してはおけないと思った。

 泉水に覆い被さって暗澹と長い物想いに耽っている泰雅を、泉水は強い怯えを宿した眼で見上げていた。
「愛している。俺にはお前が必要なんだ」
 泰雅の双眸が異様な輝きを放っている。何ものかに憑かれたような表情をしている。自分の良人だった男は、こんな表情(かお)をしていただろうか、泉水は茫然と泰雅の凄絶なまでに美しい顔を見つめた。
「な、俺と江戸へ帰ろう。江戸に戻って、また、二人で最初からやり直せば良い。泉水は子どもを欲しがっていたな、今度は一日も早く、子どもを作るんだ」
 〝な?〟と顔を覗き込まれ、泉水は小さく首を振る。
「―できません」
 泰雅の眼がわずかに見開く。
「それは、どういうことだ?」
 泰雅が信じられないものでも見るかのような眼で泉水を見る。
 何か言おうとして、思わず溢れた涙が頬をつたい落ちる。
「私はもう二度と江戸に戻るつもりはないのです。―永のお暇を頂きたいのです」
「そなた、自分が何を申しておるのか、判っておろうな」
 泰雅の顔色が変わる。泉水は泰雅から顔を背けた。
「私を離縁して下さいませ、殿」
「ゆ、許さん、俺は断じて認めぬ。離縁だなぞと、そなた、気が狂うたか、泉水」

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