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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第22章 散紅葉(ちるもみじ)

 駒吉は嫌らしげな薄笑いを浮かべて、このときだけは少し羨ましげな声を出した。が、篤次がひと睨みしてやると、根が小心な男は肩をすくめた。もし、その侍が来ることがなければ、恐らくはその侍と同じこと―泉水を力づくで我が物にしようとしたであろう男を、篤次は思いきり殴ってやりたい衝動に駆られた。
 しかし、それを必死に抑え、駒吉に絶対に他言はするなと念を押し、帰したのである。
―マ、そう怖い顔するなよ。篤さんと女先生は深え仲だから、こうしてわざわざ知らせにきてやったんだからよう。
 駒吉は薄ら笑いを浮かべて、そう言った。
 駒吉が帰った後、篤次は取るものも取りあえず泉水の住まいまで走った。いつもなら四半刻ほどかかる道のりが今日だけはその何十倍も長いように思え、もどかしかった。
 緩やかな傾斜を登って、漸く泉水の家の前の銀杏が見えたときは、ホッとした。だが、たった一日逢わなかっただけなのに、泉水はまるで別人のように変わり果てていた。
 家の前の大木の下は泉水の指定席でもあった。泉水はこの場所が気に入っていて、篤次が訪ねたときには大抵、樹の下に座っているか、もしくは、その頂まで登っているかのどちらかであった。
 今日の泉水は、その指定席に座り、まるで惚けたような表情であらぬ方を見ていた。黒髪は結わずに、無造作に一つに束ねて、横に流している。襟許もいつもの彼女らしくなく、大きく開いていた。見ようによっては、そのしどけない姿は伝法なところがあって、これまでの愛くるしい泉水とは全く違う魅力―、男の好き心をいっそうそそる姿であったろう。
 が、篤次には、判った。泉水は今、のっぴきならぬところまで追い込まれている。
 篤次は泉水に近寄ると、顔を覗き込んだ。
「早まったことだけは考えちゃならねえぜ」
 そう言った刹那、泉水の眼からポトリとひとしずくの涙が落ち、それはすぐに烈しい嗚咽に変わった。まるで、張りつめていた糸がプツンと切れたかのように、泉水はしゃくり上げた。
 篤次は、号泣する泉水を躊躇いがちに抱き寄せた。そうやって、泉水が泣き止むまで辛抱強く待ち続けた。

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