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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第22章 散紅葉(ちるもみじ)

 泉水の姿が消えたのは、その翌朝のことである。どうしてもその後の彼女の様子が気になった篤次が次に訪ねた時、既に小さな家の中はガランとして、人の気配はなかった。
 住んでいた女の几帳面な性格を物語るように、室内はきれいに片付けられ、村長から貰ったという小さな姫鏡台だけがぽつんと片隅に残っていた。
 あの小さな鏡台を泉水はとても大切に使っていて、良い物を貰ったと歓んでいた。そんなときの彼女の顔は年相応の娘らしい溌剌さに明るく輝いていて、篤次は眩しく見つめたものだ。
 泉水の明るい無邪気な笑顔、時折見せていた愁いに満ちた哀しげな顔が脳裡をよぎる。
 多分、昨夜、泉水に乱暴した男というのが泉水の良人、あるいは末を言い交わした許婚者なのだろう。そして、恐らくは、泉水は、その男から逃れて、この村にやって来たに違いない。
 この村に来た日、身に纏っていた着物や袴が上物で到底、町人の着るようなものではなかったこと、気品を感じさせる物腰などから、武家の娘ではないかと漠然と見当はつけていたが、やはり、思っていたとおりだったようだ。
 駒吉の言によれば、泉水を訪ねてきた男は、侍だったという。あの太陽のように屈託のない娘を良人だという男は容赦なく犯したのだ。
 篤次は銀杏の樹の下に茫然と立ち尽くす。
 何か温かくて、ふわふわしたものが脚に触れるので、ふと見下ろす。小さな黒い猫がいつどこからともなしに姿を現し、篤次の脚許にすり寄っているのだった。泉水が可愛がっていたくろである。
「おい、お前、どこに行ってたんだ?」
 くろが急に姿を見せなくなって、泉水はひどく心配していた。そのことを、篤次はもう随分と昔のことのように懐かしく思い出していた。
 冷たい晩秋の風が篤次の傍を吹き抜ける。
 篤次は身をかすかに震わせ、銀杏の樹の下に佇み、村の本道へと続く坂道の向こうを眺めた。
 眼の前には、真っすぐに一本の道がのびている。
 この小道を辿れば、村の目抜き通りに至り、直に主街道へと続く脇道に入る。
 この道を辿って、泉水は村を出ていったのだ。

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