テキストサイズ

胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第23章 山茶花(さざんか)の寺

《巻の壱―山茶花の寺―》

 泉水は改めて周囲をゆっくりと見回してみる。眼の前には磨き抜かれた長い廊下が真っすぐにのびている。ひととおり拭き掃除を終えた後、こうして綺麗になった廊下を眺めるのが近頃の泉水の習慣になった。一つの仕事を自分なりにきちんとやり遂げた満足感―というには、いささか大仰だけれど―がある。
 ここの寺に来て、そろそろひと月になろうとしている。最近になって漸く、新しい暮らしにも少しは慣れてきた。
「おせんちゃん、廊下拭きも大分板についてきたようだな」
 その声に、泉水は振り向く。吹き抜けの廊下沿いに、小さな庭が見渡せる。そこに一人の小柄な老人が佇んでいた。この老爺の名前は伊左久。歳はもう七十は超えているという。―あまりに長う生きすぎてしもうて、自分の歳も判らなんようになってしもうたわい。
 いつか、そんなことを言って笑っていた。当時としては、かなりの長寿だ。実際に伊左久が自分の歳を忘れているかどうかは定かではないが、七十年もの星霜を生きてきた身にとっては、今更己れの歳のことなぞ、たいした問題ではないのかもしれない。
 泉水は、この寺では〝おせん〟と名乗っている。泉水の脳裡に、この山奥の小さな寺を初めて訪れた日が蘇る。その日、寺の小さな庭を埋め尽くすように山茶花が花開いていた。まず山門へと続く長い石段の両脇に山茶花がいっぱいに咲いているのが眼についた。次いで、山門を抜け、庭に至れば、更にその小さな庭にも山茶花の樹があちこちにあった。
 花の色は紫ががった紅色もあれば、淡紅色、白、それらが微妙に入り交じったぼかしもあった。色とりどりの花が緑の葉の茂みにつしいていて、圧巻とさえ言えた。泉水はしばし、その光景に眼を奪われ、立ち尽くしていた。
 そのときの庭の風景は、鮮烈な記憶となって、泉水の心に灼きついた。ささくれ立った心の疵が癒やされてゆくような、洗われてゆくような気がした。初めて脚を踏み入れたこの寺が自分を両手をひろげて迎えてくれているように思えてならなかった。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ