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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第23章 山茶花(さざんか)の寺

 泉水は、かつて江戸で暮らしていた。元を正せば、五千石取りの直参旗本榊原泰雅の正室であったのである。それが、良人と次第に相容れなくなり、屋敷を飛び出した。江戸を少し離れた近在の小さな農村に身を潜めていたところ、泰雅に見つかってしまった。泰雅に触れられるのが嫌で出てきたというのに、泉水はまたしても泰雅に犯された。
 一体、どこまで逃げれば良いのか、自由の身になれるのか。絶望した泉水は、再び村を出て流離いの身となった。かといって、どこに行くという当てがあるわけでもなく、折角見つけた居場所を奪われてしまったのだ。途方に暮れ、歩いている中に村の背後にある山へと分け入っていた。
 元々、この山は深山というわけではなく、標高も知れている。山の頂に小さな寺―というよりは庵があるとは聞いていたけれど、まさか実際にこの眼で見る機会に恵まれるとは考えてもいなかった。この庵こそが現在、身を寄せている月照庵である。月照庵はまたの名を観月庵、月照寺とも呼ばれていた。
 惚けたようにその場に立ち尽くしていた泉水に声をかけてくれたのが伊左久であった。
―どうした? 我らが庵主さまに何か用かな。
 伊左久はこの月照庵にもう三十年余りにわたって奉公する下男、要するに寺男である。もとより小さな尼寺に男手があるはずもなく、力仕事から日常の様々な雑務ー厨房の賄いに至るまでを伊左久一人で切り回していた。身寄りはいないというが、小柄で温厚そうに細められた眼には、伊左久がこれまで生きてきた長い幾星霜を忍ばせる穏やかさがある。
 この伊左久は庵主光照をそれこそ観音さまのように崇め、信奉していた。そんな伊左久を見て、泉水は伊左久に冗談半分で言ったことがある。
ー伊左久さんのご本尊さまって、うちの庵主さまでしょ?
 その質問に、伊左久は照れもせず怒りもせず、大真面目な表情で頷いた。
ー儂は江戸で何度も盗みを働き、危うく町方に捕まりそうになって逃げてきた身よ。行き場がなくて、この山奥に逃げ込んで隠れていたところ、庵主さまが拾うて下された。
 その時、伊左久はこの庵にこっそりと忍び込んだのだという。庵主を脅して金目のものを幾らか盗み、それを路銀にして更に遠くに逃亡しようと企んだのだ。が、伊左久に匕首を突きつけられた光照は穏やかな笑みを浮かべて言った

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