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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第23章 山茶花(さざんか)の寺

ーここに迷い込んだのも何かの縁、御仏のお導きにございましょう。この現世に生きる人は皆おしなべて御仏の子。この寺はたとえささやかとはいえども、御仏のお住まい、つまり御仏の子であれば、誰でも足を踏み入れることのできる場所です。そなたがここにとどまる理由は、それだけで十分。また、この寺のものを持ち出そうとするのも、我が子であれば御仏はお許し下さいましょう。お好きなようになさい。
 その言葉に、伊左久はかえって怖れおののいた。刃を首に押し当てられても、なお平然と微笑む光照は伊左久には底の知れぬ尼僧に見えた。人を殺めたことはないが、盗みなら何度もいたこともあり、数知れぬ修羅場をかいくぐってきた伊左久は文字通り、この世の裏世界に生きてきた男である。少々のことでは動じない度胸もふてぶてしさも備えていたが、その伊左久でさえ、これほど肝の据わった女を見たことはなかった。
 このときから、伊左久は盗人からきれいに足を洗い、光照の信奉者となり、月照庵に住み着くことになった。伊左久は、光照のためならば生命を投げ出すことすら厭わぬのではないか。流石に伊左久もそこまで軽々しく口にすることはなかったが、日頃からの伊左久の言動には、ひたすら御仏に仕える求道僧ののような覚悟と決意がほの見える。その、伊左久のひたすら仕える仏というのが、他ならぬ光照その人に相違ない。
 光照の歳もまた定かではないが、伊左久によれば、恐らくは五十代半ばほどではないかという。つまり、光照と伊左久は、互いにまだ二十代、三十代の頃からの知己であった。多分、最初の頃、伊左久の心の内には光照に対するほのかな憧れ、即ち女性に対する恋心のようなものも存在したに違いない。が、日が経ち光照の人となりを知るにつれ、この浄らかな尼僧が俗世の人と同じ範疇には入らぬことに気付いたのだろう。
 今の伊左久は、光照をただ生き仏のようにひたすら崇拝するだけの、ただの一人の信者にすぎない。かつては数多くの大店に押し込みに入り名を馳せた悪党だった男も、長年の寺での穏やかな暮らしに洗われて、今はただの気の好い老爺になっていた。
 初めて脚を踏み入れたその日、何故か何の抵抗感もなく、泉水にはむしろ寺が快く我が身を受け容れてくれているように思えたものだ。その親しみやすい印象はそのまま住職の光照の人柄につながった。

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