テキストサイズ

胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第23章 山茶花(さざんか)の寺

 慈悲深く、懐の広い、救いを求めて訪れた者は貴賤を問わず無条件で受け容れる。それが光照の考え方の基幹をなすものであった。だからこそ、ふいに飛び込んできた泉水をも光照は何の躊躇いも見せず迎え入れたのだ。
 光照は泉水に対して何も訊かなかった。どこから来たのかとも、何故、ここに来たのかとも、一切を追及しなかった。
―ここに置いて頂きたいのです。掃除、薪割、水くみ、台所仕事でも何でも致します。どうか、この御寺の片隅になりたと置いて頂けませんでしょうか。
 そう言って手を付いた泉水を、静かなまなざしにで見つめていた。
―そなたの名は何と申すのですか?
 問われたことといえば、たった一つ―名を問われたくらいのものだったろう。
 泉水はその時、少し躊躇った。ひたと注がれる光照のまなざしは労りに満ちていて、けして厳しいものではなかったけれど、わずかな嘘でさえ見透かされてしまいそうな鋭さもまた秘めていたのだ。
 だが、結局、本当の名を告げることはできなかった。仮にこの慈しみ深い尼僧に名前どこか、すべてを打ち明けたところで、彼女が江戸の泰雅にわざわざ連絡をよこすとは思えない。しかし、真の名を告げるだけの勇気はまだなかった。
―せん、と申します。
 どうせなら、泉水という名を少しでも偲べるものが良いと、せん(泉(せん))と名乗ることにした。以来、泉水はここでは〝おせん〟と呼ばれている。
―どのような仕事でもしてくれるという申し出は大変ありがたいのですが、伊左久はまだまだ何でもこなしてくれることができるので、女のそなたに薪割まで頼む必要はないのですよ。そなたには、やはり厨房の方を任せると致しましょう。
 光照は、そう言って笑った。そうして、泉水はこの寺に新しい居場所を得た。
 月照庵での一日はほぼ決まっている。早朝、まだ夜明け前に起き出し、近くの川から水を汲んでくる。更に寺内の掃除、朝餉の支度と続く。その後、本堂で読経を捧げる光照と共に朝の勤行をし、朝食となる。このときも光照の側で朝飯を取り、むろん給仕を務める。朝食後は庭掃除を済ませ、光照に仏典、経文など尼僧になるべきための様々な教えを受け
る。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ