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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第23章 山茶花(さざんか)の寺

 これは泉水の方から頼んで教えを請うているのであった。寺で暮らすようになって半月ほど経つ中には、泉水の中には光照に対する憧れが生まれていた。光照のように浄らかな心の持ち主になり、尼として、我が身のように悩める人々の力に少しでもなれたらと願うようになった。
 このことは、泉水が立ち直るきっかけとなった。目的や夢をはっきりと意識した時、人は思わぬ力を発揮できる。泉水は泰雅の許を逃れ、自由になりたいと欲していた。そのため、江戸から遠く離れた村で寺子屋の指南をして新しい生活を始めていたのだ。なのに、泰雅に発見され、再び陵辱されるという哀しい目に遭った。
―次に来るときは必ず江戸に連れて帰る。逃げようなどとは思うな。
 低い声で耳許で囁き、泰雅は江戸へとひとたびは帰っていった。いずれ近い中にあの男が訪れることは判っていたし、言葉どおり、その際には泉水を連れ帰るだろう。そのときは、たとえいかほど抗おうと拒否できるものではないことも判っていた。
 泰雅と共に江戸に帰り、以前のような日々を送ると想像しただけで、怖ろしさと絶望に気が狂いそうになった。ならば、泰雅が迎えに来る前に、姿を消さなければならない。
 村にも〝寺子屋の女先生として〟馴染み始めていた矢先のことだった。折角得た居場所、そして、篤次という春の陽だまりのような男との別離は正直、辛かった。篤次に対する信頼の中には確かに、異性への恋心にも似た想いがあった。むろん、それはまだ淡いものにすぎなかったけれど。
 だが、あの村にいることはどうしても叶わなくなり、泉水はまた流浪の旅に出た。そうして辿り着いた場所がこの山頂の小さな庵であった。あの村は眼と鼻の先にある。徒歩でも一刻か、一刻半あれば、ふもとの村には着ける距離だ。しかし、あそこに自分が帰ることはもう二度とないだろう。
 今でも篤次の屈託ない笑顔が時折、脳裡をかすめる。が、泰雅の気性を思えば、篤次には二度と逢えるものではない。それでなくとも、泰雅は、篤次と泉水の間を疑っている様子であった。実際には二人の間には泰雅が勘繰っているようなことは何一つない。心の通い合いはあっても、まだ互いの想いさえ伝え合ってはいなかった。

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