胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第23章 山茶花(さざんか)の寺
だが、泉水を狂おしいほどに求めるあまり、泰雅は感情の抑制がきかなくなってしまっている。それゆえ、篤次と泉水の間ですら、深間になっているものと端から決めてかかっている。泉水がいくら弁明しようと、およそ聞く耳を持たなかった。そこでまた泉水がのこのこと篤次の前に現れたら、嫉妬に狂う泰雅がどう出るか判らない。
確かに表向きだけ見れば、泉水には何の申し開きもできない状況ではある。れきとした直参の奥方でありながら、良人の許しも得ず出奔、そのことだけでも許されないのに、篤次が泉水の住まいをしょっ中訪れていたのは紛れもない事実であった。篤次に今一度逢いたいという気持ちはあっても、最早、それは叶わぬ望みである。篤次の身を思えば、これ以上泉水が篤次に拘わることは危険すぎた。
まだ、はきと自覚することすらない中に消えた儚い恋であった。篤次の優しげな笑顔を思い出すことはあっても、今となっては泉水にとっては遠いひとになってしまった。
折角手にした新しい生活を失い、泉水は絶望のどん底に突き落とされた。どこまで逃げれば良いのか、どこにゆけば、泰雅の手から逃れ、本当の自分を取り戻せるのか。行き場を見失い、闇の中でもがき苦しんでいた泉水に手を差し伸べてくれたのが光照であった。
我が身も光照のような徳のある尼僧になりたい。その想いは、泉水を再び立ち上がらせる糧となった。今、泉水は目標を持っている。午前中の修行を終えた後は、中食、午後からは再び光照について修行、夕刻は夕餉の支度に追われる。眠るのは早く、明朝に備えてまだ夜も早い中に床に入る。
自分の好きなように過ごせる時間といえば、その就寝までのほんのひとときであった。泉水には小さいながらも一室を与えられている。眠るまでのわずかな時間は部屋で自由に過ごして構わないのだが、実際には一日の疲れで部屋に戻るとすぐに床に潜り込んで、熟睡するのが常であった。
村で暮らしていた頃には、小さな仕舞屋ではあったものの、湯殿がついており、毎日の湯浴みができた。だが、今は風呂などに入る贅沢は許されず、時折、人眼に付かぬ場所で行水をする程度だ。
それでも、泉水は今の生活に生き甲斐を見い出していた。夢を持つことで、泉水は自分を辛うじて支えている。ともすれば崩れそうになる自分を懸命に叱咤し、前に向かって進もうとしているのだ。
確かに表向きだけ見れば、泉水には何の申し開きもできない状況ではある。れきとした直参の奥方でありながら、良人の許しも得ず出奔、そのことだけでも許されないのに、篤次が泉水の住まいをしょっ中訪れていたのは紛れもない事実であった。篤次に今一度逢いたいという気持ちはあっても、最早、それは叶わぬ望みである。篤次の身を思えば、これ以上泉水が篤次に拘わることは危険すぎた。
まだ、はきと自覚することすらない中に消えた儚い恋であった。篤次の優しげな笑顔を思い出すことはあっても、今となっては泉水にとっては遠いひとになってしまった。
折角手にした新しい生活を失い、泉水は絶望のどん底に突き落とされた。どこまで逃げれば良いのか、どこにゆけば、泰雅の手から逃れ、本当の自分を取り戻せるのか。行き場を見失い、闇の中でもがき苦しんでいた泉水に手を差し伸べてくれたのが光照であった。
我が身も光照のような徳のある尼僧になりたい。その想いは、泉水を再び立ち上がらせる糧となった。今、泉水は目標を持っている。午前中の修行を終えた後は、中食、午後からは再び光照について修行、夕刻は夕餉の支度に追われる。眠るのは早く、明朝に備えてまだ夜も早い中に床に入る。
自分の好きなように過ごせる時間といえば、その就寝までのほんのひとときであった。泉水には小さいながらも一室を与えられている。眠るまでのわずかな時間は部屋で自由に過ごして構わないのだが、実際には一日の疲れで部屋に戻るとすぐに床に潜り込んで、熟睡するのが常であった。
村で暮らしていた頃には、小さな仕舞屋ではあったものの、湯殿がついており、毎日の湯浴みができた。だが、今は風呂などに入る贅沢は許されず、時折、人眼に付かぬ場所で行水をする程度だ。
それでも、泉水は今の生活に生き甲斐を見い出していた。夢を持つことで、泉水は自分を辛うじて支えている。ともすれば崩れそうになる自分を懸命に叱咤し、前に向かって進もうとしているのだ。