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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第23章 山茶花(さざんか)の寺

「本当ですか? でも、きれいになったでしょう」
 泉水は伊左久に向かって、得意げに笑って見せた。自分が磨き上げたばかりの廊下を振り返り、微笑んでいる。その仕草は、まるで孫娘が祖父に向かって自慢しているかのようにも見える。
 伊左久は泉水を相好を崩して眺めていた。
「おせんちゃんがここに来て、もうひと月にもなるんだな」
 しみじみとした口調で言う伊左久には、このまだ娘といっても良いほどの年若い女にもまた相当の事情があるのであろうことは察している。
―男、か。
 それは伊左久の本能的な直感だ。七十年以上も生き、しかも、この世の裏を見てきた伊左久は人を見る眼が備わっていた。おせんと名乗るこの若い女が男に拘わる出来事―恐らくは男から逃げてきたのではないかと、ひとめ見たときから見当をつけていた。泉水から何を聞いたわけでもなく、話したわけでもない。ただ、時折見せる暗い翳りのある表情からは、伊左久にそう思わせるものがあった。愁いに満ちた横顔は、男に虐げられる女が見せる特有のものだった。そんな表情をする女たちを伊左久はこれまで大勢見てきた。
 自分にしろ、おせんにしろ、この山上の小さな寺に流れ着いたのは、この現世では生きてゆけない哀しい宿命(さだめ)を背負ったからだ。いわば、伊左久もおせんもこの世のはみ出し者であった。そのはみ出し者を、寺の住職である光照は何の詮索もせず受け容れる。光照のお陰で、伊左久はこうして真っ当な道を歩いていられる。
 もし、三十年前のあの夜、光照が伊左久に逆らったり、人を呼ぼうとしていたら。
 伊左久は果たして、どうしていただろう。あの匕首で光照の細首を刺し貫いていただろうか。鋭利な刃を突きつけられたうら若い尼僧は何事もないように微笑んで、伊左久に金目のものを持ってゆけと言った。
 あれは伊左久にとっては愕きであった。この女は気違いかもしれないと咄嗟に思ったほどだ。だが、光照の微笑は、御仏のように柔和で穏やかで慈悲に溢れていた。その表情は、不信心な伊左久が滅多に拝むことのない仏の顔に似ているような気もした。
―この方は観音菩薩だ。

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