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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第23章 山茶花(さざんか)の寺

 ふと我に返った時、伊左久は匕首を投げ捨てていた。生まれてこのかた手を合わせたことのない男が、若い尼に向かって、まるで仏像を拝むように合掌していたのである。
 以来、伊左久は光照を心底から観音菩薩の化身だと信じてきた。伊左久とて男だ、若い女と一つ屋根の下にいれば、気が昂ぶって眠れなかったこともある。だが、光照の人を疑うことのない浄らかな笑顔を眼にしただけで、そのような醜い濁世の欲望は消えた。
 いつしか、伊左久は光照を己れの生命を賭しても守る存在だと思うようになっていた。日常的な恋愛感情とは少し違うが、伊左久にとって光照が生涯ただ一人の女であることに違いはない。たとえ肉体的に結ばれることはなくとも、かの女(ひと)に想いを告げることができずとも、伊左久は生涯にただ一人の女にめぐり逢うことができた、ただそれだけで十分幸せだと思えた。
 思えば、伊左久にとって、この小さな庵で過ごした長い年月は、不思議なものであった。穏やかで世間とは全く隔絶されていながらも、ここで自分は確かに生きていると実感できる手応えのある日々。光照な出逢うことがなければ、伊左久はとうに奉行所の役人に捉えられ、獄門台の露と消え果てていたか、そうでなくとも、罪に罪を重ね、この世の地獄を見ていただろう。
 まさしく、光照こそ伊左久にとっては救いの仏であった。
 伊左久は、この娘には、ただ憐憫と情愛を感じた。例えて言うなら、身内のない伊左久にとっては孫のようなものだ。この若さでむざと黒髪を降ろして仏門に入るのは哀れにも思えたけれど、本人がそれを望んでいるのならば致し方ない、また、男の手から逃れるにはそれしかすべはないというのであれば、かえって身を守る手段にはなるだろう。
 とにかく、ここまで逃れてきたからには、修行に励み、何とか落ち着いて欲しいと願うばかりであった。男も娘がこんな山の寺に潜んでいるとは想像もできないだろうし、万が一、男が追いかけてきたとしても、尼寺にまでそうそう手を出せるとは思えない。ここならば、おせん(泉水)の身を守るには恰好の場所になることは間違いない。
「本当、もう、ひと月にもなるんですね」
 泉水は慌ただしく過ぎ去ったこの一ヶ月間を改めて思い起こしていた。絶望の果てにあったのが、この小さな寺だった。この小さな寺の住職光照が泉水を絶望の底から引き上げてくれのだ。

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