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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第23章 山茶花(さざんか)の寺

「弥生から卯月の初めにかけて、ここいらも桜が満開になる。ほら、向こうに何本か桜の樹があるだろう。あの桜がなかなかのものでな。それに、寺の外にもこの近くは山桜がたくさんあるから、春にはまるで花霞に包まれているようなものさ」
「まあ、すてきだわ」
 泉水はその光景を瞼に描いてみる。小さな庵をたっぷりと花をつけた桜が取り巻く光景。さぞや見事なものだろう。伊左久の話を聞いただけで、長い冬を越すのも愉しみになってくる。
 その時、向こうから光照の声が響いた。
「伊左久さん、おせんどの、少し休憩して、お茶にしませんか」
 こうやって光照はしばしば、伊左久や泉水に休みを与え、労をねぎらってくれるのだ。
 光照自ら茶を点て、菓子と共にふるまってくれる。
 何故か、光照は泉水を〝おせんどの〟と呼ぶ。恐らくは初めてこの寺に来た時、泉水が例の若衆姿―小袖と袴のいでたちをしていたからかもしれない。あれを見れば、町人ではなく武家の者だと一目瞭然だ。また言葉遣いや立ち居振る舞いなどの所作からも、泉水が伊左久とは違う生まれ育ちであることは判るだろう。
 光照自身、到底五十を超えるとは思えないほど、若々しさを保っており、ただ人とは思えぬ気品を漂わせている。いずれ名のある家の出身であることは察せられたものの、一度俗世を捨てた光照に、その捨てた家やしがらみについて問うのは、はばかられる。それに何より、ここでは伊左久を初め、泉水、光照、誰もが過去を持ち、その過去を捨てた者ばかりであった。
 ここでは、互いの過去には触れない。それが一つの暗黙の掟のようなものになっていた。
「庵主さまがお呼びのようですね」
 泉水が言うと、伊左久も頷いた。
 二人は顔を見合わせると、いそいそと光照の居間に向かった。小さな寺にあるのは、本堂、客室、光照の居間、それまで納戸代わりに使われていた小部屋―それが今は泉水の部屋になっている―だけだ。その他には玄関の脇に、煮炊きのできる土間があり、そこが厨房として使われている。
 伊左久は、庭に自分で建てた、物置のような掘っ立て小屋に起居している。掃除道具一式もしまってある小屋で寝起きしているのは、やはり女性である光照を慮ってのことに相違なかった。

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