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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第23章 山茶花(さざんか)の寺

 お茶を頂くときには大抵、光照の居間に移動する。庵主の部屋とはいっても、せいぜいが六畳ほどの座敷で、文机と小さな箪笥があるだけの質素なものであった。
 ここで光照の立てた抹茶を呑みながら、ひとときの話に興じるのが泉水には一番の愉しみである。光照は話題も豊富で、他愛ない世間話を面白おかしく話すし、伊左久は伊左久で若い頃の武勇談をまるで物語のように身振り手振りで大袈裟に話す。もっとも、その話というのは盗人時代ではなく、若い頃、小料理屋の看板娘に懸想して何度も文を送ったが、相手にして貰えなかった―という色恋沙汰の類だ。
 神聖な尼寺、しかも住職の光照の前ですべき話ではないと思うのだが、光照は伊左久の話をさも愉快そうに聞き入り、時折は玉を転がすような声を上げて笑う。徳の高い浄らかな尼君といえば、悟りきった女人を連想するが、光照に限っては違う。伊左久の数々の武勇談にも嫌な顔をするどころか、少女のように眼を輝かせているのだから。
 これは元々の光照の砕けた人柄にもよるが、実は、伊左久と光照の二人が塞ぎがちであった泉水の気を少しでも引き立てようとしていたのである。ここに来た当初、泉水はいつも淋しげな憂い顔をしていた。
 肝心の泉水は、二人が示し合わせていることなぞ知らない。今日も伊左久の若い頃の恋愛沙汰に話は及んだ。
 朝の穏やかな陽が差し込む部屋に、上座に光照、下手に伊左と泉水が並んで座っている。師走も半ばとなったが、日中はまだ比較的温かい日もある。この庵ではまだよほど寒いときでなければ、日中は火をたかない。
 光照が手ずから点てた茶を呑みながら、伊左久が話を続ける。
「ま、そういうわけで、儂がいそいそと約束の場所に現れた時、その場に居合わせたのは、儂の意中の看板娘ではなく、友達だという別の娘でな」
 伊左久の話を要約すると、こうなる。
 伊左久が夢中になっていた小料理屋の看板娘がついに二人だけで逢うことを承諾してくれた。伊左久は狂喜して、早速出かけるが、娘が指定した場所に待っていたのは、その娘の幼なじみだとかいう別人で、しかも、その娘は色黒の醜女だった―。
「ま、そのときほど、女にしてやられたと思うたことはないがの」
 光照がホホと手のひらを口に当て、忍び笑いを零す。

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