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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第25章 杏子の樹の傍で

《巻の参―杏子の樹の傍で―》

 先刻から泉水は忙しなく箒を動かしている。思いもがけず泰雅の子を宿していると知ってからふた月、弥生を迎えた山は長く厳しい冬を終え、開花の瞬間を待っている。この山上の小さな寺の庭にも様々な花が次々に開き始めていた。今は、白木蓮の花が純白の大ぶりな花を見事に咲かせている。この花は清浄とした美しさを持ちながら、また艶麗な雰囲気を漂わせている。花びらが大きいため、散り始めると、掃除がなかなか大変だ。
 泉水の腹の赤子も順調に育ち、今では悪阻もすっかり治まった。―のは良いのだが、あれほどひどかった悪阻が治まると、今度は猛烈な食欲が出てきた。これまで食べられなかった分を取り戻そうとでもいうかのように、腹が空く。とはいっても、尼寺の質素な食事ではなかなか太りようもないのだが、それでも時折訪れる夢五郎などは
―少し太ったんじゃないか。
 と、泉水をからかっている。その度に、泉水がむくれるという案配だ。もう五ヶ月に入った腹部は、少し膨らんできている。だが、まだ帯の上からでは、身ごもっていることは判らない程度だ。少し膨らんで丸みを帯びてきた腹を見る度、泉水は愛おしさを憶えるようになった。
 この子を殺してしまおうなどと考えたことが今では信じられない。
 その日、庭掃除を終え、泉水は久しぶりに近くの川まで水汲みに行った。懐妊してからというもの、伊左久は泉水にけして重い物を持たせようとしなかった。むろん、水汲みも光照から固く禁じられている。その代わりに、伊左久がこれまでのように水汲みに来ていたのだ。
 だが、昨日の朝、水汲みに出かけた伊左久が腰を痛めてしまったのである。何しろ伊左久はもう六十を幾つも超えている。元々足腰に痛みを訴えていたというから、無理をしたのがいけなかったのだろう。
 それでも、伊左久も光照も口を揃えて泉水に水汲みに行かないようにと言い渡した。折角五ヶ月まで育った腹の子が流れでもしたら一大事だと言い張る。二人ともいささか過保護すぎるほど泉水を大切に扱う。その心遣いが泉水には涙が出るほど嬉しい。
 泉水にとっては赤の他人である二人が、何故かとても近しい間柄の人のように思えてならないのだった。ゆえに、急いで庭を掃いてしまうと、二人の眼をこっそりと盗んで出てきたのだ。

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