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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第25章 杏子の樹の傍で

 泉水は河原まで来ると、抱えてきた空の桶を脇に置いた。流石に天秤棒を担いでくるのは止めた。
 河原の片隅で、杏子の樹が薄紅色の花を満開につけている。ここの杏子の実は砂糖漬けにすれば茶菓子にもなるし、種は薬としても使えるのだと光照が教えてくれた。収穫の季節が今から愉しみである。
 時折、やわらかな春の風が頬を撫でる。今を盛りと咲く花は、ほんのりとした紅色で、実に愛らしい。風が吹くと、ひらひらと可憐な花びらを散らせ、その花びらが水面に落ちる。水面に無数の花びらが舞い降り、また水上に新たな花が咲く。そんな光景を眺めるのも愉しくて、つい刻が経つのも忘れていた。
 だが、いつまでも、こうしてはいられない。早く水を汲んで戻らなくては、光照や伊左久が心配しているだろう。光照は泉水に一つの条件を出している。それは、無事身二つになるまでは、修行を一時休止することであった。身重の身体で厳しい修行を続けるのには無理がある。ゆえに、ここはひとまず滞りなく出産を終えることだけに専念するように―というものであった。
 最初、そう言い渡された時、泉水は愕然とした。折角、少しずつ色んなことを憶えている矢先に、無情にも修行を止めるようにと言われたのだ。随分と落胆したけれど、落ち着いて考えてみれば、やはり今の自分には続けられそうにないことが判った。何より妊娠初期は悪阻が烈しくて、殆ど寝たきり状態の日が続いたのだ。ろくに食べることもできず、泉水はひと回り以上も痩せた。あんな有り様では、まず修行は無理だった。
 現在、泉水は伊左久の手伝いを身体の負担にならない程度にしている。光照はああは言ったものの、泉水が安定期に入って体調が落ち着いてくると、午前中は以前のように教典についての講義を再開してくれた。
 早く戻らなければ、その貴重な講義の時間に遅れてしまうことになりかねない。泉水はしゃがみ込むと、桶を抱えて水を汲もうとした。その時。
 背後から肩を掴まれた。
「おい、姐さん、何してるんだ?」
 泉水は愕いて振り返った。
「夢五郎さん」
 泉水は相変わらず頼房を夢五郎と呼んでいる。一度、〝頼房さま〟と呼ぼうとしたら、夢五郎が大いに照れてしまって、最後には止めてくれと言い出す始末だったのだ。

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