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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第25章 杏子の樹の傍で

 その問いは、時橋にしてみれば当然のものだったろう。たとえ何があろうと、時橋は泉水の意思に従うつもりでいる。その覚悟で、自らも榊原の屋敷を出たのだ。生まれたその日から我が手に抱いて、我が乳を与えて育ててきた姫なのだ、共に過ごした時間は実の娘たちよりも長い。
 泉水にとって時橋が母であるように、時橋にとっても泉水はまた娘であった。
「そなたにはまた要らざる苦労をかけてしまうけれど、私はもう二度と殿の許に戻るつもりはない。江戸を出たときには、まだ殿をお慕いする気持ちも少しは残っていたけれど、この子を身ごもった時、すべては終わった―。私とあの方はどんなことがあっても、もう以前のようにやってはゆけぬ」
 泉水の口調は揺るぎない。そのきっぱりとした口調は、泰雅への本当の別離を告げるもののようにも時橋には思えた。
「それでも、お子さまをお生みになられると?」
 愚問だとは判っても、訊かずにはおれなかった。泉水がこれから選び取ろうしている道は、あまりにも苛酷で壮絶なものになる。
 泉水が時橋を見た。
「この子は私の子ゆえ、私が産んで育てる。この子は時橋、御仏が授けて下された、私だけの子じゃ。たとえ血縁上は泰雅さまが父親であろうと、最早、あの方は私たちとは何の拘わりもなきお方」
 御仏が授けて下された私だけの子。それは、夢五郎が泉水に言った科白であった。
 泉水は、きっぱりと言い切った。澄んだまなざしはまだ露を含んではいるけれど、前だけを見つめ凜としている。
―私のお育てした姫さまは、いつのまに、このように大人におなり遊ばされたのだろう。 時橋は感慨深い想いに囚われた。
 半年前、榊原の屋敷を出るまでの泉水はまだ、どこか子ども子どもしたところがあったのだ。勘定奉行の姫として育ち、大身の旗本の奥方となった育ちの良さというのか、世間を知らぬ深窓の姫らしい世慣れぬ部分があった。
 それがこの半年という月日がその世間知らずの初な娘を大人の女性に変えたらしい。その中には、時橋にさえ言えぬ、様々な辛い想いをしたに相違ない。
―あのお小さかった姫さまが母君さまにおなりになるとは。

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