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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第25章 杏子の樹の傍で

 時橋の脳裡に、泉水の幼い日々が走馬燈のように浮かんでは消えていく。
 物心つくまでは、時橋の姿が見えぬと言っては泣き、物心ついてからはお転婆で、少し眼を離せば、庭の樹に登っていた。時橋はそんな泉水をよく叱ったものだ。
 あれほど待ち望んでいた懐妊がこのような形で叶えられるとは、運命の皮肉だろうか。
 だが、泉水が生むと決めたのなら、時橋には何も言うつもりはない。ただ、泉水が無事に出産を終えるのを御仏に祈るばかりだ。
「姫さまのお気持ち、よう判りました」
 時橋が頷くと、泉水は改めて乳母を見つめる。
「そなたは私についてきてくれるか、時橋」
「はい、もとより、その覚悟で江戸を出て参りました。姫さまがおゆき遊ばされるところへ 庭の桜はもう樹齢も定かではない老木だ。この庵を建てるときには既にこの場所にそびえていたそうだ。薄紅色の花をたっぷりと重たげにつけた姿は、さながら妙齢の娘が薄紅の衣を身に纏っているように見えた。時折、鶯が遊びにきては、枝に止まって囀っている。
 夢五郎が来たときも、鶯が良い声で啼いていて、泉水は廊下でその音色に耳を傾けていたところであった。
「よっ」
 と、まるでつい昨日、顔を見て別れたきりのような現れ方をするのもいつものことである。
 廊下に座り、ぼんやりと春の庭を眺めていた泉水は眼を見開く。
 夢五郎は来るときは間を空けず頻繁に来るが、長いときにはふた月近くでも平気で来ない。そんなときには、何故か心にぽっかりと穴が空いたような気がして、一抹の淋しさを感じてしまう。今も、早く夢五郎が来ないかなどと考えていたとは、口が裂けても言えない。
 夢五郎の声に愕いたものか、鶯の囀りがピタリと止んだ。ほどなく、梢を揺らし、鶯かが飛び立ってゆく。その拍子に、桜貝のような花びらがはらはらと散り零れ、舞った。
「ああ、折角良い声で啼いていたのに、逃げちゃったじゃないですか」
 幾分非難を込めて言うと、夢五郎が肩をすくめた。
「済まねえ。姐さんの顔を見たら、嬉しくなっちって、つい大声が出たのさ」
 と、このどこまでが冗談なのか判らない話し方もいつもどおりである。

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