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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第25章 杏子の樹の傍で

 もっとも、その満面の笑顔にはいくばくかの真実も―嬉しさをこらえきれぬ表情も含まれてはいるようであったが。
 夢とひと口に言っても、様々な意味合いがある。人が眠りの間に見る夢、その人の思い描く理想や目標という意味での夢。夢売りの夢五郎はやはり、単なる眠りの合間に見る夢だけではなく、彼の夢札を買った人に希望や元気、勇気を与えるのが商売なのかもしれない。夢という名の希望を売り、その人を明るい未来に導く。
 だとすれば、夢五郎こそが夢見鳥ではないのか。彼の夢札を買い求めた客に吉兆をもたらす夢見鳥なのかもしれない。
 そして、泉水も夢五郎から希望と勇気を貰った客の一人であった。泉水は愛していた泰雅との哀しい別離を経て、この小さな寺まで流れ着いてきた。ここで待ち受けていたのは、光照や伊左久、夢五郎との新たなる出逢いであった。
 泉水は今、心からこの心優しき人たちに引き合わせて下された御仏に感謝した。生きていることに素直にありがたいと思えた。
 優しい春風がそっと身の傍を吹き抜けてゆく。ひらひらと薄桃色の花びらが風に舞う。
 静かで穏やかな刻が泉水と夢五郎をそっと包み込んでいた。

 その四ヶ月後。
 泉水は時橋に見守られて、無事男児を出産する。
 暑い夏の最中の早朝、泉水は母となった。
 予定日より十日遅れて漸く産気づき、時橋や光照が気を揉んでいるところ、夜半に急に腹痛を訴えたのである。が、それ以後は陣痛は次第に間隔が狭まり、産気づいてから、わずかに数時間という初産としては大変軽いものであった。
 痛みに汗を流し、呻き声を噛み殺す泉水の手を時橋はずっと傍らで握り、励まし続けた。
 念のために、夢五郎が京から著名な産科の医者を連れてきて、医者が数日前から待機していたものの、医者など要らぬほどの安産であった。
 医者はもう老齢で、光照が夢五郎を生んだときにも立ち合ったという。仙人のような白ひげと太い眉が印象的な、温厚な男であった。
 大抵は姿を見せても、その日の中に山を下りる夢五郎であったが、今回ばかりは珍しくそのまま医者と共に月照庵に逗留した。二人の泊まる部屋がないため、泉水が光照と共に同じ部屋で寝み、医者と夢五郎が泉水の起居していた部屋に寝ることになった。

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