テキストサイズ

胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第26章 別離

《巻の壱―別離―》

 小さな寺の内から元気な赤児の泣き声が響き渡る。こじんまりとした寺はひっそりと静まり返っていて、その静寂を破る赤児の泣き声はどこか不似合いである。が、泣き声は止むどろこか、次第に烈しさを増す。庭を掃いていた泉水は苦笑を浮かべた。
「もう眼を覚ましたのかしら。今少し大人しくしていてくれれば、ここの掃除も終わったのに」
 少し肩をすくめ、箒を置く。
 と、庭に面した廊下に時橋が姿を見せた。
「姫さま、若君さまがお目覚めになられましてございます」
「あい判った、今すぐ行く」
 応えておいて、泉水は廊下に上がり、そのまま自室へと戻った。外はまだ睦月の終わりとて真冬の厳しさが身に滲みたが、この中は火鉢が炊かれていて、幾分かは温かい。尼寺では普段から質素倹約を旨としている。住職の光照は粗末な木綿の法衣を身に纏い、三度の食事は米粒の浮かんだ薄い粥に、具のものもない味噌汁であった。冬になっても、よほど寒い日でなければ、日中から火を炊くことはない。
 それでも、生後数ヶ月の赤児が暮らすこの部屋だけはささやかな贅沢を許し、昼日中も火鉢で暖を取っている。抵抗力のない赤子が風邪を引けば、たちまち生命取りにさえなりかねない。その辺を考慮しての計らいであった。
「どうしたのじゃ、そのように泣いて」
 小さな布団に寝かされた赤子が顔で笑って心で泣く真っ赤にして泣き喚いている。泉水は赤子を抱き上げると、頬ずりした。黎次郎は今、生後六月めを迎えたばかりである。生まれた直後は定かではなかった顔立ちも意のでは、はきとしてきて、赤子にしては愕くほど整った眼鼻立ちをしている。形の良い額や、すっきりした鼻筋、切れ長の涼しげな眼は紛れもなく美男で鳴らした父親の面影を受け継いでいた。
 泉水がやわらかな頬に頬を押しつけると、黎次郎はすぐにピタリと泣き止んだ。
「流石はお母君さまにございますね。私がいくらお抱きしても一向に泣き止まれなかったのに、姫さまのお手にかかると、不思議なほどあっさりと泣き止まれて」
 その光景を傍らで見つめる時橋は微笑んだ。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ