胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第1章 《槇野のお転婆姫》
もとより、最初、泉水はこんな縁談を受けるつもりは毛頭なかった。たとえ公方さまが時の氏神であろうがなかろうが、この“お転婆姫”と異名を取る姫にはどうでも良いことなのである。泉水がこの縁組を受ける気になったのは、ひとえに父のことを思えばであった。
生真面目な父にお手付きの腰元がいると発覚したのは、今から三年前のこと。その腰元深雪の懐妊がきっかけであった。その時、泉水の母千登勢が亡くなってから、既に九年が経過していた。泉水は初め、あの父が屋敷内の腰元に手を付けたこと自体がにわかには信じられなかった。
もちろん、大身の旗本や大名家では当主が腰元に手をつけるのは別段珍しい話ではない。が、あの真面目一途の父に限ってと、正直、軽い衝撃を受けたのも事実だ。深雪は二十歳になったばかりの美貌の娘で、その一年ほど前から源太夫の身の回りの世話をするようになっていた。気性も素直で優しく、いかにも父好みの女である。
三十六歳の源太夫はまだ若いのだと、この時、泉水は悟った。良い加減に、自分は父を解放してあげなければならない。娘として自分はもう十分な愛情を与えて貰った。これからは、父は父自身の幸せと未来を考えるべきときだと考えたのだ。幸いにも、深雪は父を任せるに相応しい女であり、しかも深雪は父の子を身ごもってさえいる。
源太夫の寵愛を受けた深雪は月満ちて男児を生んだ。その異母弟の誕生の頃から、泉水は我が身の処し方を真剣に考えるようになった。
そんな時、榊原家からの縁組が思いもかけず舞い込んだのだ。最初は断ろうと考えた泉水は、思案の末、この縁談を承知した。それは自分のためというよりは父のためであった。
泉水がこれまで父の足枷になっていたのは明白だ。泉水は、父源太夫にこれからは己れの幸せだけを考えて欲しかった。
賢明な父がそんな娘の思惑に気づかぬはずはない。
―わしのことならば、気にするには及ばぬ。たとえ深雪に子が生まれようが、そちはこの槇野家の娘であることに何ら変わりはない。気のりのせぬ縁談なぞ、たとえ上さまのお声かがりであろうと、お断りすれば良いまでのこと。そなたは今までどおり大きな顔でこの屋敷におれば良い。
生真面目な父にお手付きの腰元がいると発覚したのは、今から三年前のこと。その腰元深雪の懐妊がきっかけであった。その時、泉水の母千登勢が亡くなってから、既に九年が経過していた。泉水は初め、あの父が屋敷内の腰元に手を付けたこと自体がにわかには信じられなかった。
もちろん、大身の旗本や大名家では当主が腰元に手をつけるのは別段珍しい話ではない。が、あの真面目一途の父に限ってと、正直、軽い衝撃を受けたのも事実だ。深雪は二十歳になったばかりの美貌の娘で、その一年ほど前から源太夫の身の回りの世話をするようになっていた。気性も素直で優しく、いかにも父好みの女である。
三十六歳の源太夫はまだ若いのだと、この時、泉水は悟った。良い加減に、自分は父を解放してあげなければならない。娘として自分はもう十分な愛情を与えて貰った。これからは、父は父自身の幸せと未来を考えるべきときだと考えたのだ。幸いにも、深雪は父を任せるに相応しい女であり、しかも深雪は父の子を身ごもってさえいる。
源太夫の寵愛を受けた深雪は月満ちて男児を生んだ。その異母弟の誕生の頃から、泉水は我が身の処し方を真剣に考えるようになった。
そんな時、榊原家からの縁組が思いもかけず舞い込んだのだ。最初は断ろうと考えた泉水は、思案の末、この縁談を承知した。それは自分のためというよりは父のためであった。
泉水がこれまで父の足枷になっていたのは明白だ。泉水は、父源太夫にこれからは己れの幸せだけを考えて欲しかった。
賢明な父がそんな娘の思惑に気づかぬはずはない。
―わしのことならば、気にするには及ばぬ。たとえ深雪に子が生まれようが、そちはこの槇野家の娘であることに何ら変わりはない。気のりのせぬ縁談なぞ、たとえ上さまのお声かがりであろうと、お断りすれば良いまでのこと。そなたは今までどおり大きな顔でこの屋敷におれば良い。