胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第4章 《新たな始まり》
《巻の壱》
鈍色の雲が帯のように垂れ込める低い空を見ていると、心まで滅入ってくるようだ。泰雅は大きな吐息を洩らし、慌てて周囲を見回す。当然というか、幸いなことに、辺りには人影どころか犬の子一匹さえ見あたらず、いつもながらに静かな人気のない道が延々と続いているだけだ。
ここは江戸の町も外れになり、眼前の小さな橋を境として和泉橋町と町人町に分かれる。和泉橋町には泰雅の住まう屋敷もあり、ひときわ広壮な邸宅は際立っている。和泉橋町は武家屋敷が建ち並ぶ閑静なお屋敷町だ。和泉橋町の一角に黄檗宗の名刹随明寺もある。対する町人町はその名のとおり、町家がひしめく活気溢れる庶民の町であり、名のある大店が軒を連ね、大通りを大勢の人々が行き合う。
まさに和泉橋と呼ばれる小さな橋を境に、全く異なる二つの世界が存在しているのだ。
榊原泰雅は五千石取りの直参旗本であり、生母は現将軍の姪、祖父は先の老中水野大膳但正に当たるという由緒ある血筋である。今年二十五歳になり、その英明さはつとに聞こえ、公方さまはこの若者を幕府の未来を担う若者として将来を嘱望していた。ただ、この泰雅の唯一の難点は、稀代の好色漢であるということだ。
もっとも、何を思ったか、この泰雅、ここ二ヶ月ばかりは人が変わったように女狂いも止め、屋敷で武芸の鍛錬や読書に勤しむようになった。榊原家に古くから仕える重臣たちは、主君のこの変わり様には眼をそばだてている。泰雅がこれほどまでに変貌を遂げたのには、大きなきっかけがある。
今年の二月、泰雅は勘定奉行槙野源太夫宗俊の娘泉水を妻に迎えた。最初はこの政略で結ばれた新妻に向きもしなかった泰雅だが、ひょんなことから町中で出逢い、泉水にひとめ惚れしてしまった。二人は互いが良人であり妻であるとも知らずにめぐり逢い、恋に落ちたのである。
やがて、二人は晴れて結ばれ、名実共に夫婦となった。ひとたびは半ば無理矢理泰雅のものにされてしまった泉水が屋敷を出て実家に帰るという事態になったが、泰雅自らが槙野の屋敷に出向き、手をついて源太夫に泉水を返して欲しいと願い出た。その折、泰雅は泉水に誓ったのだ。
鈍色の雲が帯のように垂れ込める低い空を見ていると、心まで滅入ってくるようだ。泰雅は大きな吐息を洩らし、慌てて周囲を見回す。当然というか、幸いなことに、辺りには人影どころか犬の子一匹さえ見あたらず、いつもながらに静かな人気のない道が延々と続いているだけだ。
ここは江戸の町も外れになり、眼前の小さな橋を境として和泉橋町と町人町に分かれる。和泉橋町には泰雅の住まう屋敷もあり、ひときわ広壮な邸宅は際立っている。和泉橋町は武家屋敷が建ち並ぶ閑静なお屋敷町だ。和泉橋町の一角に黄檗宗の名刹随明寺もある。対する町人町はその名のとおり、町家がひしめく活気溢れる庶民の町であり、名のある大店が軒を連ね、大通りを大勢の人々が行き合う。
まさに和泉橋と呼ばれる小さな橋を境に、全く異なる二つの世界が存在しているのだ。
榊原泰雅は五千石取りの直参旗本であり、生母は現将軍の姪、祖父は先の老中水野大膳但正に当たるという由緒ある血筋である。今年二十五歳になり、その英明さはつとに聞こえ、公方さまはこの若者を幕府の未来を担う若者として将来を嘱望していた。ただ、この泰雅の唯一の難点は、稀代の好色漢であるということだ。
もっとも、何を思ったか、この泰雅、ここ二ヶ月ばかりは人が変わったように女狂いも止め、屋敷で武芸の鍛錬や読書に勤しむようになった。榊原家に古くから仕える重臣たちは、主君のこの変わり様には眼をそばだてている。泰雅がこれほどまでに変貌を遂げたのには、大きなきっかけがある。
今年の二月、泰雅は勘定奉行槙野源太夫宗俊の娘泉水を妻に迎えた。最初はこの政略で結ばれた新妻に向きもしなかった泰雅だが、ひょんなことから町中で出逢い、泉水にひとめ惚れしてしまった。二人は互いが良人であり妻であるとも知らずにめぐり逢い、恋に落ちたのである。
やがて、二人は晴れて結ばれ、名実共に夫婦となった。ひとたびは半ば無理矢理泰雅のものにされてしまった泉水が屋敷を出て実家に帰るという事態になったが、泰雅自らが槙野の屋敷に出向き、手をついて源太夫に泉水を返して欲しいと願い出た。その折、泰雅は泉水に誓ったのだ。