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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第27章 黒い影

 現れたのは、榊原家の家老脇坂倉之助であった。
「別にそなたを呼んだ憶えはないぞ」
 平伏して畏まる倉之助に、泰雅は素っ気なく言い捨てた。
「それは十分承知致しておりますが、今日は殿に折り入ってお話がございます」
「フン、説教なら聞き飽きた」
 脇坂の方を見ようともせずに言う。脇坂はそれでも顔色一つ変えず、平伏したまま言った。
「お人払いをお願い申し上げまする」
 その言葉に、泰雅は傍らの腰元を一瞥した。
「この女ならば構わぬ」
「さりながら、事はお家の大事なれば」
 脇坂は腰元の方を意味ありげな顔で見つめた。
「それとも、何でございますかな。殿は漸く奥方さまの御事はお忘れになられ、別の女子をお側に置かれる気になられましたか」
「ええい、煩いッ。先ほどから黙って聞いておれば、要らぬことをぺらぺらと喋りおって。申したきことがあるなら、さっさと申せ」
 泰雅が一喝する。脇坂はゆっくりと顔を上げ、居住まいを正した。
「それでは、申し上げまする。実は、お方さまが―」
 泰雅は相も変わらず、脇坂の方を見てもいない。暗いまなざしで宙を見据えているだけだ。
「なに、泉水がどうかしたとでもいうのか」
 気のない様子で言い、また盃を煽ろうとしかけ、ハッとしたような表情で脇坂を見た。
「泉水の居場所が判ったのか?」
 主のあまりの烈しい見幕に、脇坂は一瞬怯んだ。泰雅の整いすぎるほどの整った面に渦巻くのは怒りとも憎しみとも取れる感情のようでありながら、飢えた者が何かを求めて止まぬような懸命さを秘めている。
 その憑かれたような瞳からそっと眼を逸らさずにはいられなかった、
「お方さまがご懐妊なさっておられるそうにございます」
「なに、今、何と申した」
 泰雅の濁った虚ろな眼にわずかに光が宿る。しかし、それは、けして明るい光ではなく、狂気を秘めた昏い瞳であった。剣呑さを帯びた妖しい焔が瞳の奥に揺らめく。空洞を思わせるその瞳は無限の闇に続いているようで、冷静沈着をもって知られる脇坂でさえゾッとするほどだった。

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