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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第27章 黒い影

「実は、それがし、かねてから配下の者に奥方さまのお行方をひそかに探らせておりました。その者が昨日、ひと月ぶりに戻って参りまして、奥方さまらしきお方を見つけたと申しておりまする。その者から、奥方さまがご懐胎なさっておられるとの報が入りました」
 泰雅の盃を持つ手が宙で止まる。
「それは、どういうことだ」
「言葉どおり、申し上げたとおりにございます」
 短い沈黙が落ちた。まるで氷の針を無数に含んだような空気がその場に満ちる。
「―誰の子だ?」
 その沈黙を破ったのは泰雅だった。
 脇坂は淡々と言った。
「その応えは、殿がいちばんよくご存じのはずでは?」
 脇坂は知っている。もう一年以上も前になるが、泰雅が霜月半ばのある夕刻、突如として馬を厩から引き出し、いずこかへ出かけたきり一晩中帰ってこなかったことがあった。結局、翌日の昼前に帰ってきたが、それ以降、泰雅の荒んだ生活が始まったのだ。
 あの日、泰雅がどこに出かけたのか。脇坂には教えられずとも、おおよそは察せられた。そして、その折、泰雅と泉水の間に起こったことを想像するのは難くない。
 泰雅の盃を持つ手が小刻みに震えた。
「連れて戻れ」
 ただひと言短く言い放った主君に、脇坂は膝をいざり進めた。
「は?」
 脇坂がわざととぼけて見せると、苛立ったように叫ぶ。
「泉水を俺の元に連れて参れ」
 そして、ふと気が変わったとでもいうように口調を変える。
「いや、今は良い。子が生まれたら、その子を泉水から取り上げてやるのだ。赤子だけを俺のところに連れてこい」
 射殺せそうなほど鋭い眼で脇坂を見据えたまま、泰雅は淡々と言った。
「―お生まれになられたばかりの和子さまを母君さまから引き離されると仰せにございますか」
 念を押すように訊ねると、泰雅が昏い光を宿した眼で頷く。
「そうだ、俺を裏切ったあの女には、いちばん酷い方法で思い知らせてやる」
「殿―」
 何か言おうとする脇坂の口調に非難めいたものを感じたのか、泰雅が苛立ちを隠せぬように言った。

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