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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第27章 黒い影

「俺の命に何か不満でもあるのか」
「いいえ、仰せのとおりに」
 脇坂は深く頭を垂れた。そのまま膝行して下がり、静かに襖を閉めた。
 静かに襖が閉まった刹那、泰雅は憤懣やる方なしといった様子で、盃を襖に投げつけた。
 まだ半分ほど残った酒が零れ、襖に滲みが広がった。
 傍らに控えた腰元が〝ひっ〟と小さな悲鳴を上げた。泰雅は怯えの表情を浮かべる腰元をじっと見つめた。突然、抱き寄せようとして、改めてしげしげと女の顔を見つめる。直に端整な面を失意と絶望がよぎった。
 泰雅は腰元を突き放した。
「ええい、眼障りじゃ。疾く去れ」
 あまりの怒気の凄まじさに、腰元はひくりと喉を引きつらせる。腰元は悲鳴を上げて、後ずさった。よろけながら、後ろを振り返りもせず出てゆく。
「泉水以外の女子は要らぬ。泉水、俺には泉水でなければならんのだ」
 低い声で呟くと、ふいに気が狂ったように笑い出した。気違いじみた笑い声がしじまに溶けてゆく。子どもを取り上げられたときの泉水の心を思うと、愉快になってくる。
―俺を裏切った女に己れの罪深さを思い知らせてやるのだ。
 そう思うと、ひとりでに笑いが込み上げてくる。自分がどれほどの罪を犯したかを今こそ、あの女―殺してやりたいほど愛しく、憎らしい女に悟らせてやる。
 これは、あの女に復讐できる恰好の機会だと思うのに、何故か涙が溢れ出て止まらなかった。無性に哀しくてたまらない。言いようのない空しさと淋しさが泰雅の胸の内でせめぎ合い、荒れ狂う。
 泰雅は狂ったように笑いながら、泣き続けた。

 夢五郎との切ない別れからふた月が経った。四月、山は春の色に染まる。尼寺を取り囲む山桜は一斉に花開き、山は薄紅色に彩られるのだ。
 尼寺の小さな庭の桜も今が盛りとたっぷりとした花を幾つもつけた。泉水はまた庭掃除に毎日忙しい。時橋と共に賑やかに話に打ち興じながら、箒を忙しなく動かす日々が続いた。

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