
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第27章 黒い影
それでも合間にふと箒を持つ手を休め、周囲の景色に見惚れることがあった。身の傍を優しく吹き抜けてゆく春の風、その度にはらはらと散り零れる薄紅色の花びら、そんな光景に時橋と二人でいつまでも見入っている。それもまた心愉しい安らげるひとときであった。
その傍ら、庭を見渡せる廊下では伊左久が黎次郎を構ってやっている姿が見られた。生後九ヶ月を迎え、這うのも上手になってきた黎次郎は数日前からつかまり立ちを始めた。一人で立つことはできないが、両手を持って支えてやれば、ちゃんともう立つことができる。
「おい、こっちだ、こっちだぞ。黎次郎」
両手をひろげる伊左久向かって、黎次郎は懸命に這ってゆく。手許までやってきた黎次郎を抱き上げ、高い高いと持ち上げるてやると、黎次郎がキャッキャツと歓声を上げる。
その嬉しげなはしゃぎ声を聞きながら、泉水は庭の掃除に精を出した。
静かな、心安らぐ時間がゆっくりと流れてゆく。この下界から隔絶された山の上の寺は、泉水と黎次郎にとっては極楽浄土のようなものであった。
よもや、その穏やかな幸せを一瞬にして壊してしまうような怖ろしい出来事が起こるとは、その時、泉水は想像だにしていなかった。泉水も時橋も気付いてはいなかったが、ささやかな平安を脅かす黒い影はひたひたと足音を忍ばせて這い寄ってきていたのである。
庭の桜もそろそろ終わりという頃、月照庵を訪ねてきた者があった。
その時、泉水は自室で黎次郎に乳を含ませている最中であった。狭い四畳半ほどの部屋で泉水は時橋と枕を並べて起居している。二人の真ん中に黎次郎を寝かせるので、本当に床を敷いただけで脚の踏み場もなくなってしまうのだ。たっぷりと乳を呑むと、黎次郎は他愛もなく眠りに落ちた。その光景を時橋が眼を細めて眺める。
「おせんちゃん、庵主さまがお呼びだぞ」
伊左久が廊下から低声で声をかけてきた。ここでは相変わらず泉水は〝おせん〟と呼ばれている。時橋も人前では泉水を〝おせんさま〟と呼んだ。
「はい、今すぐに参ります」
泉水は返事を返し、黎次郎を時橋に任せて立ち上がる。障子を開けると、伊左久の顔には戸惑いの色が浮かんでいた。
「おせんちゃんにお客人だとさ」
その傍ら、庭を見渡せる廊下では伊左久が黎次郎を構ってやっている姿が見られた。生後九ヶ月を迎え、這うのも上手になってきた黎次郎は数日前からつかまり立ちを始めた。一人で立つことはできないが、両手を持って支えてやれば、ちゃんともう立つことができる。
「おい、こっちだ、こっちだぞ。黎次郎」
両手をひろげる伊左久向かって、黎次郎は懸命に這ってゆく。手許までやってきた黎次郎を抱き上げ、高い高いと持ち上げるてやると、黎次郎がキャッキャツと歓声を上げる。
その嬉しげなはしゃぎ声を聞きながら、泉水は庭の掃除に精を出した。
静かな、心安らぐ時間がゆっくりと流れてゆく。この下界から隔絶された山の上の寺は、泉水と黎次郎にとっては極楽浄土のようなものであった。
よもや、その穏やかな幸せを一瞬にして壊してしまうような怖ろしい出来事が起こるとは、その時、泉水は想像だにしていなかった。泉水も時橋も気付いてはいなかったが、ささやかな平安を脅かす黒い影はひたひたと足音を忍ばせて這い寄ってきていたのである。
庭の桜もそろそろ終わりという頃、月照庵を訪ねてきた者があった。
その時、泉水は自室で黎次郎に乳を含ませている最中であった。狭い四畳半ほどの部屋で泉水は時橋と枕を並べて起居している。二人の真ん中に黎次郎を寝かせるので、本当に床を敷いただけで脚の踏み場もなくなってしまうのだ。たっぷりと乳を呑むと、黎次郎は他愛もなく眠りに落ちた。その光景を時橋が眼を細めて眺める。
「おせんちゃん、庵主さまがお呼びだぞ」
伊左久が廊下から低声で声をかけてきた。ここでは相変わらず泉水は〝おせん〟と呼ばれている。時橋も人前では泉水を〝おせんさま〟と呼んだ。
「はい、今すぐに参ります」
泉水は返事を返し、黎次郎を時橋に任せて立ち上がる。障子を開けると、伊左久の顔には戸惑いの色が浮かんでいた。
「おせんちゃんにお客人だとさ」
