
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第27章 黒い影
「私にお客人とは誰でしょう、珍しいこともあるものですね」
時橋と顔を見合わせる。伊左久が難しい顔で小首を傾げた。
「随分と身なりの良い男だ。儂が見たところ、お侍のようだった」
「身なりの良い、お侍」
泉水の顔色がスウと白くなった。
「おせんちゃん?」
伊左久が訝るようなまなざしを向ける。
「何なら、気分が悪いとか何とか言って、帰って貰うように儂が言ってやろうか」
「おせんさま、そのようになさって頂いては、いかかでしょう」
時橋がとりなすように言うのに、泉水は首を振る。
「いずれにしても、ここまでおいでになっているのです。たとえひとたびはお帰り頂いたとしても、また来られるに違いない。良い、逢いましょう」
―ここまで来て今更、逃げも隠れもできぬ。のう、時橋。
泉水は心の中でそう呼びかけた。
「おせんさま」
案じ顔の時橋に、泉水は微笑んだ。
「心配いたすな。そなたは黎次郎を頼みます」
泉水は伊左久に頷くと、その後について部屋を出た。廊下を歩いた突き当たりが庵主光照の居間である。来客の際は客室にもなる。
「庵主さま、せんにございます」
廊下から障子越しに声をかけると、内から涼やかな声が返った。
「おせんどのか、お入りなさい」
泉水は障子を開け、端座すると両手をついた。
「奥方さま、お久しぶりにございます」
その声には確かに聞き憶えがあった。
ああ、やはり―という想いが押し寄せる。
この江戸から離れた山の庵も泉水にとっては安住の地にはなり得なかったということなのだろうか。
「どうか、お顔をお上げ下さりませ」
その声に、泉水はゆっくりと顔を上げた。
「おお、やはり、お方さまであらせられましたか。随分とお探し申し上げました」
泉水を穏やかなまなざしで見つめていたのは、榊原家の家老脇坂倉之助であった。泰雅の父泰久の代から仕える重臣の中でも筆頭格である。何よりも榊原のお家のことを第一に考え、情よりも理と利を重んずる男でもあった。
時橋と顔を見合わせる。伊左久が難しい顔で小首を傾げた。
「随分と身なりの良い男だ。儂が見たところ、お侍のようだった」
「身なりの良い、お侍」
泉水の顔色がスウと白くなった。
「おせんちゃん?」
伊左久が訝るようなまなざしを向ける。
「何なら、気分が悪いとか何とか言って、帰って貰うように儂が言ってやろうか」
「おせんさま、そのようになさって頂いては、いかかでしょう」
時橋がとりなすように言うのに、泉水は首を振る。
「いずれにしても、ここまでおいでになっているのです。たとえひとたびはお帰り頂いたとしても、また来られるに違いない。良い、逢いましょう」
―ここまで来て今更、逃げも隠れもできぬ。のう、時橋。
泉水は心の中でそう呼びかけた。
「おせんさま」
案じ顔の時橋に、泉水は微笑んだ。
「心配いたすな。そなたは黎次郎を頼みます」
泉水は伊左久に頷くと、その後について部屋を出た。廊下を歩いた突き当たりが庵主光照の居間である。来客の際は客室にもなる。
「庵主さま、せんにございます」
廊下から障子越しに声をかけると、内から涼やかな声が返った。
「おせんどのか、お入りなさい」
泉水は障子を開け、端座すると両手をついた。
「奥方さま、お久しぶりにございます」
その声には確かに聞き憶えがあった。
ああ、やはり―という想いが押し寄せる。
この江戸から離れた山の庵も泉水にとっては安住の地にはなり得なかったということなのだろうか。
「どうか、お顔をお上げ下さりませ」
その声に、泉水はゆっくりと顔を上げた。
「おお、やはり、お方さまであらせられましたか。随分とお探し申し上げました」
泉水を穏やかなまなざしで見つめていたのは、榊原家の家老脇坂倉之助であった。泰雅の父泰久の代から仕える重臣の中でも筆頭格である。何よりも榊原のお家のことを第一に考え、情よりも理と利を重んずる男でもあった。
