
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第27章 黒い影
「お方さま、本日はお願いがございまして、こうして江戸よりはるばるお伺い申し上げました。どうか、何も仰せになられず、私と共にお屋敷にお戻りになられては下さいませぬか」
泉水はすべての感情を殺した瞳で脇坂を見つめた。脇坂はいかにも温厚そうな―けれど、眼だけは笑ってはおらぬ顔で泉水を見返している。
「今ならば、まだ間に合いまする。どうか、お生まれになられた和子さまとご一緒に殿のおん許にお戻り下され」
刹那、泉水がハッとした表情になった。
この男は、本当に何もかも知っているのだ! そして、脇坂が知っているとすれば、この男の背後にいる泰雅もまたすべてを知っていることになる。
「どうか、お帰り下さいませ」
泉水は抑揚のない声で言った。
「意地をお張りになられますな。いや、意地なぞお張りになってみたところで、何の得がおありになるというのです? 殿はお方さまだけをただひと筋にお想いあそばされておわしまする。ましてや、お二人の間には若君さまさえおできになられたのです。今をおいて、お方さまが榊原のお屋敷にお戻りになれる機会はございませぬぞ。何事もなかったかのような顔で堂々とお戻りになられませ。さすれば、我ら家臣一同も皆、お方さまを心よりお迎え申し上げましょう」
脇坂が諄々と諭す。泉水は唇を噛みしめた。
「脇坂どの、私はもう二度と榊原のお屋敷に戻る気はございまぬ。江戸を出た際、名も家も何かも―すべて捨てました。ここにおるのは、もう脇坂どのがご存じの私ではござりませぬ。榊原のお家とも泰雅さまとも縁もゆかりもなき、ただのせんという女子にございます。従って、私の倅もまた榊原さまとは何の拘わりもなき身であれば、どうか私どものこと、今後はもうお捨て起き下さいませ」
脇坂がまずいものでも食べたような表情にで押し黙った。
一瞬の沈黙の後、脇坂は断固とした口調で言った。
泉水はすべての感情を殺した瞳で脇坂を見つめた。脇坂はいかにも温厚そうな―けれど、眼だけは笑ってはおらぬ顔で泉水を見返している。
「今ならば、まだ間に合いまする。どうか、お生まれになられた和子さまとご一緒に殿のおん許にお戻り下され」
刹那、泉水がハッとした表情になった。
この男は、本当に何もかも知っているのだ! そして、脇坂が知っているとすれば、この男の背後にいる泰雅もまたすべてを知っていることになる。
「どうか、お帰り下さいませ」
泉水は抑揚のない声で言った。
「意地をお張りになられますな。いや、意地なぞお張りになってみたところで、何の得がおありになるというのです? 殿はお方さまだけをただひと筋にお想いあそばされておわしまする。ましてや、お二人の間には若君さまさえおできになられたのです。今をおいて、お方さまが榊原のお屋敷にお戻りになれる機会はございませぬぞ。何事もなかったかのような顔で堂々とお戻りになられませ。さすれば、我ら家臣一同も皆、お方さまを心よりお迎え申し上げましょう」
脇坂が諄々と諭す。泉水は唇を噛みしめた。
「脇坂どの、私はもう二度と榊原のお屋敷に戻る気はございまぬ。江戸を出た際、名も家も何かも―すべて捨てました。ここにおるのは、もう脇坂どのがご存じの私ではござりませぬ。榊原のお家とも泰雅さまとも縁もゆかりもなき、ただのせんという女子にございます。従って、私の倅もまた榊原さまとは何の拘わりもなき身であれば、どうか私どものこと、今後はもうお捨て起き下さいませ」
脇坂がまずいものでも食べたような表情にで押し黙った。
一瞬の沈黙の後、脇坂は断固とした口調で言った。
