
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第27章 黒い影
「おせんちゃん、こんな卑劣な野郎の科白に惑われちゃならねえ。黎次郎を手放したりするんじゃねえぞ」
伊左久が怒鳴った。
「黙らっしゃい! これは、貴様のような下郎の口を挟むべきことではない」
脇坂が一喝する。流石に榊原家にこの人ありと謳われる名家老だけあって、数々の修羅場をかいくぐってきたはずの海千山千の伊左久ですら、たったのひと声で黙らせるほどの迫力がある。
「お願いにござります。この脇坂、忠心より申し上げまする。どうか、奥方さま。若君のおんため、ひいては、榊原家のおんため、ここは曲げてご承知下さりまぬか。酷いことをお願い申し上げているのは、この私とて重々承知しておりまする。我らが家臣がいかほどお世継さまのご生誕を心待ちに致しておったかは奥方さまがよくご存じのはず。今、漸く待ち望んだ若君さまがお生まれになったのです。どうか、どうか、若君さまのおんゆく末を私にお任せ下さりませ。この脇坂倉之助、けして悪いようには致しませぬ。もし、奥方さまが私を信じて託して下さるならば、必ずや身命を賭して若君さまにお仕え致しまする」
かつて泉水に一向に懐妊の兆がなかった時、脇坂は泰雅に側室を勧め、一日も早い世継の誕生を望みたいと言った。いわば、脇坂を初め、榊原家の重臣たちにとって世継誕生は長らくの悲願であった。それが今、やっと待望の世継を授かったのだ。しかも、その世継の若君は側室が生んだのではなく、れっきとした正室腹の、勘定奉行槙野源太夫宗俊を外祖父とする血筋の和子である。
脇坂が黎次郎を是が非でも江戸に連れ帰りたいと願うのもまた無理からぬことではあった。
脇坂のお家を思う心は本物だ。泉水は考えに沈んだ。たとえ、泉水がどのように言い繕おうと、黎次郎は紛れもなく榊原家の嫡子、泰雅の血を引く長男だ。泉水の生んだ子ではあっても、泉水一人だけの子ではない。黎次郎を待つ大勢の家臣たちが江戸にいる。
「約束してくれますか、この子を絶対に不幸にはしないと」
泉水は脇坂を真正面から見つめた。
「お方さま、それでは若君さまを」
脇坂の顔が歓びに輝いた。
「おせんどの、それで真に良いのですか」
光照の静かな声音が気遣うように訊ねる。
伊左久が怒鳴った。
「黙らっしゃい! これは、貴様のような下郎の口を挟むべきことではない」
脇坂が一喝する。流石に榊原家にこの人ありと謳われる名家老だけあって、数々の修羅場をかいくぐってきたはずの海千山千の伊左久ですら、たったのひと声で黙らせるほどの迫力がある。
「お願いにござります。この脇坂、忠心より申し上げまする。どうか、奥方さま。若君のおんため、ひいては、榊原家のおんため、ここは曲げてご承知下さりまぬか。酷いことをお願い申し上げているのは、この私とて重々承知しておりまする。我らが家臣がいかほどお世継さまのご生誕を心待ちに致しておったかは奥方さまがよくご存じのはず。今、漸く待ち望んだ若君さまがお生まれになったのです。どうか、どうか、若君さまのおんゆく末を私にお任せ下さりませ。この脇坂倉之助、けして悪いようには致しませぬ。もし、奥方さまが私を信じて託して下さるならば、必ずや身命を賭して若君さまにお仕え致しまする」
かつて泉水に一向に懐妊の兆がなかった時、脇坂は泰雅に側室を勧め、一日も早い世継の誕生を望みたいと言った。いわば、脇坂を初め、榊原家の重臣たちにとって世継誕生は長らくの悲願であった。それが今、やっと待望の世継を授かったのだ。しかも、その世継の若君は側室が生んだのではなく、れっきとした正室腹の、勘定奉行槙野源太夫宗俊を外祖父とする血筋の和子である。
脇坂が黎次郎を是が非でも江戸に連れ帰りたいと願うのもまた無理からぬことではあった。
脇坂のお家を思う心は本物だ。泉水は考えに沈んだ。たとえ、泉水がどのように言い繕おうと、黎次郎は紛れもなく榊原家の嫡子、泰雅の血を引く長男だ。泉水の生んだ子ではあっても、泉水一人だけの子ではない。黎次郎を待つ大勢の家臣たちが江戸にいる。
「約束してくれますか、この子を絶対に不幸にはしないと」
泉水は脇坂を真正面から見つめた。
「お方さま、それでは若君さまを」
脇坂の顔が歓びに輝いた。
「おせんどの、それで真に良いのですか」
光照の静かな声音が気遣うように訊ねる。
